2月29日、ワシントンD.C.で開催された「硫黄島の戦い75周年記念ガラ・ディナー」に参加し、特別ゲストとしてスピーチしました。(2020年03月03日)

 

2月29日、ワシントンD.C.で開催された「硫黄島の戦い75周年記念 ガラ・ディナー」に参加し、特別ゲストとしてスピーチしました。


米国硫黄島協会が主催するこの会には、全米から約550人が参加し、盛大に開催されました。


参加者は、75年前に実際に戦闘に参加し生還した退役軍人、戦死者の遺族、米国海兵隊・陸・海・空・沿岸警備隊の退役又は現役軍人とその家族であり、かつての戦いの戦友を追悼し栄誉を讃える大切な行事です。


私が活動する日本硫黄島協会は、米国硫黄島協会と1965年以来、硫黄島において「硫黄島戦没者 合同慰霊・顕彰式典」を開催しています。


かつて戦った敵同士が合い集い、継続して合同慰霊祭を開催しているのは、世界でただ一ヶ所、硫黄島のみと言われております。


しかし、その長い交流の中でも相手の国で開催される会に参加することはなく、私が2年前に米国硫黄島協会に招かれ参加したのが初めてであり、その際に、名誉ある第一回「日・米平和と和解賞」を受賞しました。


米国軍人の会に他国の人間が招かれることは異例であり、この日も会場内の外国人は私と日本の杉山大使、駐在武官や公使と通訳だけです。


ディナーの前の式典で私は、硫黄島協会のバイス会長、米国海兵隊総司令官バーガー大将、本日引退するスミス米国硫黄島協会議長らと共にスピーチしました。


まずは、長年の日米硫黄島協会の取り組みが、戦後の日米の和解と信頼の象徴として高く評価されていることを讃えあうと共に、これまでの道は決して簡単なことではなかったことに改めて触れました。


今でこそ毎年3月に硫黄島合同慰霊祭が実施されていますが、かつて激しく戦った敵同士が合同の式典を開催するまでには戦後40年の時が必要だったのです。

「名誉の再会」と名付けられた第一回は1985年です。私もこの時、初めて今は亡き母と硫黄島を訪れました。


第二回目の開催はそれから10年後の1995年、第三回目は5年後の2000年です。初めはぎこちなかった両国の触れ合いが少しづつほぐれ、高齢が進み5年後では来れないなどという声にも考慮し、それ以降毎年の開催がようやく行われるようになりました。


加えて今回のスピーチでは、76年前に私の祖父「栗林忠道・硫黄島守備隊総司令官」が当時10才の娘、私の母に宛てた硫黄島から送った手紙も紹介しました。
戦場から二度と会うことのないであろう娘を気遣う父親の想いは、地獄のような戦いに臨むこととは無縁の優しく愛情にあふれたものでした。そしてその想いは米国側兵士と同じだったのです。同じ想いを持つものがどうして戦わなければならなかったのか。


「大切なものを守る」ために精一杯働いた勇者たちに報いるためにも、私たちはこれからも平和を追求し、英霊を追悼する交流を続けていこう、と呼びかけました。


スピーチの後はディナーとなり、3時間半に及ぶ中で、本当にたくさんの方々から声をかけられ、記念写真を撮り、様々なエピソードを聞かせていただきました。


日米双方の生還者も95才を超えるようになり、生存者はいよいよ少なくなっており、車椅子の人が大半です。


私たち日米の硫黄島協会は、当事者がいなくなってもその子どもや孫、ひ孫達に活動を引き継ぎ交流を続けていくことを誓い合っています。
別れ際に、高齢によりもう硫黄島には来れないであろうと思われる人には、くれぐれも元気でいてくれることをお願いし、名残り惜しくも会場を後にしました。