第105号 竹島の真実



◆「独島は我が地」

 5月31日、所属する衆議院外務委員会で質問に立ちました。私は委員会室にCDラジカセを持ち込んで、冒頭「独島(竹島の韓国名)は我が地」という韓国の大衆歌謡曲を流しました。「誰がいくら自分達の土地だと言い張っても独島は我が地」「ハワイはアメリカの地
対馬は日本の地 独島は我が地 我が地」こんな歌詞が続きます。
 韓国では、こうした曲がカラオケで歌われたり、歴史教科書(韓国側から見た一方的な記述ですが)にも記述されたり、官民あげてプロパガンダに努めていま
す。独島(=竹島)を自国領と信じて疑わない韓国民。竹島問題に関心の薄い日本人。この温度差はどうして生じてくるのでしょうか?
 今年の4月、竹島周辺の海洋調査に関して外務次官協議がおこなわれましたが、そうした外交交渉の場においても、日本側から竹島の歴史について触れることは避けられてしまっています。
 私はあえて国会の場で竹島の歴史について質問することで、政府間の交渉の場はもとより、日本国民そして韓国国民にも共通の歴史認識をもち、感情論によらない客観的な議論が広がっていくよう望んだのです。


◆ 竹島とその現状

 竹島は、島根県の隠岐の島町に属している日本海に浮かぶ孤島です。西島、東島と呼ばれる2つの小島と、これを取り囲む数十の岩礁で構成されており、面積
は全てを合わせても約0.2平方kmで、日比谷公園ほどの大きさしかありません。2島とも四方は断崖絶壁をなし、一本の立木もなく、飲料水の確保も困難
で、昔から人が住めない島でした。
 現在は韓国が、灯台や見張場、兵舎等を築き、軍に準ずる装備を持つ韓国の武装警察官(独島警備隊)を常駐させ不法占拠を続けています。


竹島と鬱陵島の歴史

 明治時代まで、現在の竹島は「松島」、鬱陵島は「竹島」と呼ばれていました(この名称の混乱が歴史理解を困難にしています)。歴史上、日韓で領土に関する争いがあったのは、昔の竹島(=鬱陵島)のことであり、松島(=竹島)は一貫して日本領として認知されていました。

 江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩(鳥取)の町人が幕府から鬱陵島への渡海免許を受け、アワビ等の漁業を行っていましたが、松島(竹島)はその際の
寄港地、漁労地として利用されていました。その後、漁をめぐっての争いから、1696年に江戸幕府は鬱陵島を朝鮮の領土と認め、鳥取藩主に渡航を禁止しま
した。しかし、松島(竹島)への渡航は禁じておらず、明治まで漁業基地として活用されていました。
 1900年(明治33年)、大韓帝国は鬱陵島を領土と宣言。一方、松島は、1905年(明治38年)正式に日本領とされ、竹島と命名の上、島根県知事が公示を行ったのです。
 1910年、日韓併合が行われ、鬱陵島も日本領となりましたが、第二次大戦後、1951年9月に連合国との間で調印されたサンフランシスコ平和条約にお
いて、日本は朝鮮の独立を承認し、済州島、巨文島、鬱陵島を放棄することを求められました。韓国は、竹島も日本が放棄する地域に含めるよう、ダレス米国務
長官に要求しましたが、米国極東担当国務次官補によって「竹島はかつて朝鮮の一部として取り扱われたことはない」旨の回答がなされ、要求は連合国により拒否されたのです。
 そこで韓国側は、条約が発効される1952年4月に先立って、同年1月に当時の李承晩韓国大統領が、日本海上にいわゆる「李承晩ライン」を一方的に設定し、竹島も韓国領に含まれると主張したのです。現在にいたる不法占拠は、ここに端を発します。
 以来、1965年に日韓基本条約が締結し国交が正常化されるまでの間、このラインを超えた300隻以上の日本漁船が韓国側に拿捕され、死傷者も出ました。そして、李承晩ラインがなくなった現在に至っても、竹島周辺海域には日本漁船が近づけない状態が続いています。


◆ 共通理解と対話こそが友好への扉

 残念なことに、日韓外交交渉の場において竹島問題を話しあう際に、明治以前の歴史に触れると韓国側は極めて感情的になり、日本政府もそれを危惧して本質
的な歴史議論を持ち出せないのが現状です。また、日韓の歴史問題は文献や史料のきちんとした検証がなされないまま、感情論や贖罪観で語られてしまうことが
多いのも確かです。
 私は今回の委員会で、多くの歴史的事実を日本政府に確認しました。
 そして、この事実を何よりも日本と韓国の国民の皆さんに広く知ってもらい理解を深めるために、政府広報物の発行や外務省ホームページの改善を要求いたしました。
 竹島問題解決のためには、歴史的、客観的事実を互いが認識し、最大限の知恵と冷静な対話を通じて解決策を見つけ出さなければなりません。

新 藤 義 孝

  (追加資料) 竹島領有権問題について

  (リンク) 外務省 「竹島問題」