◆ 政治家としての信条
私は、平成8年に衆議院に立候補しました。当時、川口・鳩ヶ谷には29年ものあいだ自民党の衆議院議員がおらず、私は自民党の公認はいただいたものの、派閥に属さず、当然中央からの応援もないという状況でした。
当選後、橋本総裁と小渕派の小渕会長から、「仲間がいないと仕事が充分にできないだろう」と声をかけていただき、小渕派にお世話になることになりまし
た。当時は、竹下登先生、梶山静六先生、野中広務先生などの勇壮たるメンバーがきら星のごとく並んでいました。その中で、小渕恵三先生は、私をとてもかわ
いがってくれました。ある時、私がいただいた言葉が「政治家は背骨を持て」という訓言です。
「政治家は自分の信念を貫き通さねばならない。それがたとえ、派閥の意向、党の方針に逆らうものであったとしても、自分がこうと決めたら考えを変えてはならない」 皆さんは意外に思うかもしれませんが、派閥の会長がそう言って若手議員を奮起させてくれたのです。
背骨のない人間は成長することはできないし、根を張ることもできない。これが、私を今まで支え続けてきてくれた最大の教訓です。
◆ 自民党に明日はあるのか?
1996年、村山内閣が退陣し橋本内閣が誕生、自民党が政権に復帰しました。翌97年、バブル崩壊で低迷する経済が上向きかけた当時、橋本内閣は国民の
大きな期待とともに、「行政・財政・社会保障・経済・金融・教育の6大改革」を断行するとともに緊縮財政政策を実施しました。しかし、急ぎすぎた財政再建
策が以降の不況を招いたとして、98年の参院選に大敗してしまいます。
同年の自民党総裁選には、小渕、梶山、小泉の3候補が出馬しました。「凡人・軍人・変人」と揶揄されたように、当時の小渕さんの人気は最低でしたが、私は
「この混乱した自民党をひとつにまとめるのは小渕さんの人柄しかない」という信念の下、小渕候補の秘書代わりとして、選挙中はずっと付いてまわりました。
総裁選の模様をテレビで見ていた地元の支援者の方からは「人気のない候補者と一緒に映ってしまって、新藤さんの株も下がるよ」などと言われたりもしました
が、私は決して考えを曲げませんでした。
その後発足した小渕内閣では、「二兎(景気回復と財政再建)を追うものは一兎も得ず」のキャッチフレーズの下、公共投資などの財政拡大政策を展開し景気
回復を優先させました。その効果があらわれた矢先、残念ながら小渕総理が急逝してしまいました。そしてその後継者を選ぶ際に、自民党は密室手法という古い
体質を発露してしまいました。日本のリーダーを選ぶのに、党内にも国民にもはかることなく派閥の論理で無難な選択がなされてしまったのです。森内閣の下で
株価は凋落し、それに合わせるかのように支持率も下落していきました。
加藤の乱を経て、森内閣は退陣することになり、私は若手3人の仲間とともに、開かれた総裁選の実施を提案しました。橋本派反乱軍と呼ばれ圧力をかけられま
したが、2001年の総裁選において、麻生・亀井・小泉・橋本各候補との個別懇談会を開催し、議員一人一人の意思で投票する運動を行いました。
永く政権を担ってきた自民党は、良いところと悪いところをあわせ持っています。外部から自民党を批判するのは簡単なことです。しかし私は単に批判するの
ではなく、自民党を改革するために、「派閥内の派閥反乱軍」から「自民党内の自民党反乱軍」へと向かって歩みを進めるつもりです。
◆ 派閥を超えて、党派を超えて
現在の小泉内閣が推進する改革は、橋本内閣以来の財政削減・構造改革路線です。一方で、小渕内閣・森内閣の進めた財政拡大・景気回復路線があります。この10年間、日本は大枠でこの2つの方向を行き来してきました。
私の政治家としての「背骨」とは、「自分がやっている仕事が、日本の、そして国民のためになるかどうか」ということです。社会情勢、経済状況は刻一刻と変
化します。政治に決められたシナリオはありません。しかし、私はこの「背骨」があったからこそ、自らを見失うことなくやってこれたのだという自負がありま
す。
今私は、小渕内閣誕生、小泉内閣誕生に続く、3度目の節目に立っています。今まさに、政策とビジョンに基づいて自民党を再編すべき時期に差し掛かっているのです。そしてそれは、自民党のみならず、民主党をはじめとする野党も含めた政界の大編成につながっていくはずです。
もちろん一人でできる筈もなく、同じ志を持つ仲間とともに、夢と希望の持てる政治の実現のために、自民党を改革し、政治を真に国民のものとするために、私はもがき、あがき続けるつもりです。
新 藤 義 孝 |