クリント・イーストウッド監督が映画化 ~祖父 栗林大将と硫黄島戦~



◆ イーストウッド監督と会談 ◆

 「クリント・イーストウッド氏が会いたいと言ってきている」 先月半ば、外務省から1本の電話が入りました。ハリウッドを代表する映画俳優にしてアカデミー賞受賞監督としても知られる巨匠が、硫黄島戦の映画化に着手。ついては、日本側の生還者や遺族から直に話を聞きたいというのです。
 
私の母方の祖父である栗林忠道・陸軍大将は、硫黄島守備隊の最高司令官を務めました。私はもちろん戦後世代ですが、祖母や母から伝え聞いた祖父の生涯とそ
の人柄、遺稿・遺品、数多くの資料を通して知り得たその生き様は、同時に私の原体験として心に強く刻み込まれ、私の人生観にも大きな影響を与えています。
 2万129名の日本軍戦死者と、それを上回る2万8686名の米軍戦死傷者を出し、太平洋戦争最大の激戦と言われる硫黄島戦。私は現在、その遺族と数少
ない生還者による「硫黄島協会」の顧問を務めています。戦後60年を経た今なお島には1万3458柱もの遺骨が残されたままであり、同協会では戦没者の慰
霊と遺骨収集活動を続けています。
 私たち遺族にとって、硫黄島には様々な想い入れがあります。映像化するならば、何としても私たちの心情を汲み取ってもらいたい。そう思いながら、4月6日、硫黄島協会の遠藤会長とともに、会見場である都内のホテルに向かったのです。


◆ 硫黄島戦と祖父 栗林忠道 ◆

 米軍基地のあったサイパン島と東京のほぼ中間に位置する硫黄島は、日米双方に重要な戦略的価値をもつ島でした。日本への空襲の中継基地としたい米軍は、1945年2月19日、海兵隊6万人を先頭に計15万人で攻撃を開始しました。
 戦況が悪化する中、硫黄島守備隊2万1000人は孤立無援の戦いを余儀なくされました。圧倒的な戦力差もあり、当初米軍は、5日間で島を攻略できると考えていました。迎え撃った栗林総司令官は、島中に地下壕を掘って陣地とし、前代未聞のゲリラ戦を展開。36日間にわたり激しい抵抗を続けましたが、3月26日、約800人による突撃を最後に、栗林司令官を始めとする日本軍の組織的戦闘は終了しました。栗林は砲弾を受けた後、部下に「司令官の首を敵に渡すな」と言い残して戦死。その遺骨は未だ発見されていません。


◆ 死地にあった兵士たちの想い ◆

 絶望的な戦況下にもかかわらず日本軍が死にものぐるいで抗戦したのは、B29の本土への来襲を防ぎたい一心からでした。生きては還れぬ戦いの中で、兵士たちは何を思い、死んでいったのでしょうか?
 栗林は、戦地・硫黄島から家族に宛てた手紙を数多く書いています。私の母の実家に今でも大切に保管されている「たこちゃんへ」という書き出しで始まる一連の手紙。それらは信州に疎開していた幼い娘、たか子へ宛てたものです。
「たこちゃん、元気ですか? お父さんが出発の時、お母さんと二人で御門に立って見送ってくれた姿がはっきり見える気がします...」
「ゆうべも寝て直ぐと明け方との二回、空襲がありました…こちらはまだ暑いですが、内地はもう寒いでしょう。ことに又信州は寒いでしょう。よほど気をつけないと風邪を引きますよ...」

 地下壕に潜み、飢えと渇きに苦しみながら、栗林は祖国に残した家族の暮らしに想いを馳せていました。そしてそれは、他の兵士も同じだったに違いありません。
 しかし、思いはかなく「私からの手紙はもう来ないものと思って下さい」と妻への手紙に書いたとおりに、栗林は還らぬ人となりました。
 軍人だった栗林は海外での生活も多く、愛する家族との絆を保つ唯一の手段は手紙を出すことでした。大尉時代には、軍事研究のために渡米した先から、長男
太郎に沢山の絵手紙を書いています。それらは「玉砕総指揮官の絵手紙」(小学館文庫)という1冊にまとめられています。


◆ 日米合同慰霊祭と遺族の想い ◆

 祖国と愛する家族を守るために。兵士たちのその想いは、日本もアメリカも違いはありません。
 硫黄島協会は、米海兵隊と連携をとり、毎年この島で慰霊祭を行っています。今年3月にも、日米あわせて800名以上の遺族らが、この地で命を落とした者への思いを寄せました。敵対していた国同士が合同で慰霊式典を実施するのは、世界でもこの硫黄島だけなのです。


◆ イーストウッド氏へ ~ 私の願い ◆

 私の母、たか子は昨年逝去しました。伯父にあたる太郎も先日亡くなりました。もはや戦争の記憶は風化されつつあります。
 戦地へ赴いた者にも、残された者にも大きな苦しみと傷跡を残す。言うまでもなく、戦争は二度と決して起こしてはなりません。

 遠藤会長や私の話を真摯な眼差しで受け止めてくれたイーストウッド監督は、会談の最後に「従来あるような単なる戦争映画にはしない。家族の絆、戦場に散った兵士一人ひとりの想いを、今を生きる若い世代へのメッセージとしたい」と語ってくれました。
 硫黄島は日米の遺族たちから聖なる地と見なされており、撮影には困難を伴うとも思いますが、どうか素晴らしい映画になるようにと祈念しています。

新 藤 義 孝