週刊新藤 第271号 WEB版〈8月15日は“平和”を想う日。「ホタルとなって帰郷 女手一つで育てた愛児」 靖国神社 第30回「戦没者追悼中央国民集会」にて、ご挨拶いたします。〉を発行しました。ぜひご覧ください。

8月15日は“平和”を想う日。
「ホタルとなって帰郷 女手一つで育てた愛児」

靖国神社 第30回「戦没者追悼中央国民集会」にて、ご挨拶いたします。

 

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戦後71回目の終戦記念日となる8月15日、日本会議と英霊にこたえる会より要請を受け、靖国神社の境内内特設会場にて開催される追悼国民集会で私の思いを申し上げる機会をいただきました。
この会は昭和62年より始まり本年は30回目の節目を迎えるとのこと。これまで、総理になる前の安倍晋三代議士や故中川昭一代議士、石原都知事など縁のある方が挨拶されており、昨年は自民党の稲田朋美政調会長が役を務めました。
私は、現在の平和で豊かな日本が、英霊の貴い犠牲の上に成り立っていることを心に刻み、決して風化させてはならないと考えています。また、二度と悲しい戦争が起こらないよう平和の誓いを持ち続けることが、家族のため祖国のため大切なものを護るために精一杯がんばった方々に報いることだと思っております。
当日は家族とともに靖国神社にお詣りさせていただいた後、心を込めてご挨拶させていただきます。

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「息子を喪った母の思い」
(門田隆将『太平洋戦争 最後の証言 第二部 – 陸軍玉砕編』 小学館 2011)

8月15日は、日本中が平和を想う日です。私の友人であり、作家の門田隆将さんの著書「太平洋戦争 最後の証言」というノンフィクションの中に、何度読み返しても胸を打つ、子を思う母の手紙が紹介されております。 門田さんの承諾をいただき、皆さまにもご紹介させていただきます。


ガダルカナルの激戦から二十一年が経過した昭和三十八年三月十一日、『河北新報』の「南海の墓標」という連載にガダルカナル島で仙台の第二師団の一員として戦った一人息子を喪った母親の文章が掲載された。第二師団は、「勇(いさむ)兵団」と呼ばれ、ガダルカナルで敵の猛襲の中を突破し、飛行場の一部を奪取した青葉大隊もこの師団に属する。
「“ホタル”となって帰郷 女手一つで育てた愛児」と題されたその寄稿文に触れた河北新報の読者は、涙をとどめることができなかった。

《 いとし子よ。
思えばお前がガダルカナル島で戦死したという公報を受けとったのは、ひどく暑い昭和十八年の夏でした。奥会津の山奥でお前が出征したあとは、たった一人の暮らしながら、世間さまに笑われないようにと、それこそ気を張りつめて生きてきました。

早くおとうさんに先立たれたわたしは、一人息子のお前をかかえてどうしようかと、一時は途方に暮れました。それでもおとうさんが残して下さった山林にすがりながら、どうにかしてお前を無事育て上げようと、ともすれば崩れがちな女心に鞭打って、浮世の風に耐え抜きました。

いとし子よ。
お前は無学な母に似ず、小学校からいつも一番を通して、お前だけが生きる望みのわたしを、どんなに喜ばせてくれたことか。小学校を県知事賞で卒業したお前は当然、中学校を志望するものと学校の先生も思い、わたしもそう信じていたのに、お前は乏しい家産(かさん)を思ってか、農学校に入ると言い出して、そのまま高等科に進んでしまったのです。そんなお前がいじらしくて、わたしは一晩おとうさんの位牌の前で泣き明かしました。
農学校を卒業したお前は村の農会に勤めるかたわら、青年団活動に一生懸命でした。やがて現役で会津若松の連隊に入隊したお前は、幹部候補生を志願して、一年後には少尉に任官していました。お前の凛々(りり)しい将校姿を見て、わたしはこれがわが子かと、しばらくは自分の目を疑ったほどでした。

いとし子よ。
生きて帰られた方のお話を聞けば、お前は戦いに敗れてジャングルを後退しているうちに飢えと熱病のため、ついに力尽きて死んだというではありませんか。戦場に赴いて立派な働きをしようにも弾もなく、食なく、見知らぬ異国のジャングルの中を数十日間もさまよいにさまよい歩いたあげく、飢えて死ななければならないとは、何という不憫(ふびん)な一生であろうと、それからわたしはしばらく食を断って、お前と苦しみをともにしました。
わたしはお前が最期に目を閉じるとき、何を思い、何をつぶやいたかをよく知っています。あれから二十一年間、わたしはいつもお前と二人で暮らしていたころのまま、お前とわたしのお膳を二つならべ、お前の茶碗(わん)には一杯飯を盛り、お椀には熱い味噌汁、皿には大好物の卵焼きに天ぷらを添え、お前の写真の口元に食べさせてあげているのです。

いとし子よ。
お前の戦死の公報を役場の方が持ってこられたのは、もう日暮れどきでした。わたしは近くの小川ですすぎものをして立ち上がると、まだ日も奥会津の山に沈まないのに、一匹のホタルがわたしの目の前をすっと飛んでいったのです。何と気の早いホタルだろうと、わたしはしばらくホタルのあとを目で追っていました。するとホタルはわたしの前を去りがたげに、物言いたげに幾度となく行き来しているのです。
不思議に思いながらもそのまま家に帰ってみると、役場の方が門口に立っていたのです。一枚の紙を差し出されたとき、わたしはすべてを察しました。ああ、あのホタルは死んだお前の化身だったのかとさとったわたしは、公報を手にしたまま一散に夕暮れた小川のほとりへと駆け出していました。だが、もうホタルはすでにかき消えておりました。

いとし子よ。
それからホタルはわたしの命となりました。毎年の夏の訪れがわたしには待ちきれないほど慕わしく、かなしいのです。おととしも、去年もお前と小川のほとりで会いました。そして幾度となく繰り返しお前の名を呼びました。ことしの夏もまたお前と小川のほとりで会える日を、わたしはいまから心待ちにしています。きっと、きっと来て下さいよ。
奥会津の母より 》

貴重な若者の命が失われ、半数以上が餓死、戦病死した悲劇の島・ガダルカナル。わが子の無事だけを祈りながら、ついにそれが叶わなかった親たちの数かぎりない嘆きと哀しみは、誰に知られることなく大きな時代の流れの中に吸いこまれていった。


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2013年4月、安倍総理と硫黄島を訪問。いまだ島に眠る11,520柱(52.6%)ものご遺骨を、故郷にお還り頂く活動を続けています。