【動画】-硫黄島の兵士たちは美しく生きた-(月刊「WiLL 6月号」) 新藤義孝インタビュー取材  

先日、月刊「WiLL」から3月21日に硫黄島で行われた日米合同慰霊追悼顕彰式について、取材を受けました。
以下に、記事の抜粋をご紹介します。なお、取材の様子は動画におさめましたので、よろしければ是非ご覧ください。 記事の全文は「WiLL 6月号」に掲載されております。



 戦後70年を迎えた式典で、私は遺族代表として挨拶をさせていただき、「故郷や家族を守りたい。そのために戦うという気持ちは日米双方で同じだった」と話しました。互いにこのことを確認できたのは言葉で語る以上に重要なことで、実際に戦闘を経験していない私たちには想像し得ない葛藤が日米双方にありました。米側からは、硫黄島で戦闘を経験したスノーデン元海兵隊中将が「憎しみは友情に変わった」と挨拶。九十四歳のスノーデン氏は、今年が最後の参加になるとのことでした。
かつて闘った敵味方が一堂に会する式典を続けているのは、世界で唯一、硫黄島だけです。

  
 慰霊式には中谷元防衛大臣、塩崎恭久厚労大臣の現職閣僚に初めて参加していただきました。2年前、私は総務大臣を拝命し、現職大臣としてなんとか慰霊式に参加したかったのですが、三月は予算審議の真っ最中。在任中、2度のチャンスがあったにもかかわらず、国会の日程上、どうしても実現できませんでした。そこで今回は、昨年の段階から「閣僚が参加するためにも式典を週末にしたほうがいい」と関係各所に申し入れ、アメリカ側の合意も得ることができて、3月21日土曜日の開催となったのです。初めて閣僚の参加を得たことは関係者一同の大きな喜びであり、70周年にふさわしい式典ができたと思います。

 私たちが決して忘れてはならないことがあります。それは硫黄島が70年間、時間の止まった島であるという事実です。硫黄島では約二万一千九百名の日本兵が命を落とし、未収容のご遺骨は一万一千五百四十柱、戦死者の約53%に当たるご遺骨が眠ったままになっています。特に、我々が硫黄島を訪問する際、飛行機が着陸する滑走路の下はこれまで一度も探したことがなく、多くのご遺骨があるのではといわれています。
 硫黄島の遺骨収集が始まったのは第1回目が昭和27年で、日本の主権が回復した際に実施され、九十一柱を収集しました。ところが、2度目に行われたのは小笠原が返還されたあとの昭和43年。つまり戦後23年もの間、まともな遺骨収集すらできなかったのです。一方のアメリカ軍は、ほぼすべての遺骨収集が行われています。日本とは雲泥の差です。これが戦争の厳しさであり、重みであり、「負ける」ということなのです。

 敵に見つからないよう壕を掘り、その奥に潜んだままの方々は、70年経ったいまも「まだ戦っている」。その方々の御遺骨を一人残らず探し出し、「もう戦争は終わりました。一緒に故郷に帰りましょう」と連れて帰る。これは遺族の悲願であり、国家が果たさなければならない責務でもあります。

 ところが、滑走路下を調査する遺骨収集には、大規模な作業とそれに伴う巨額の費用が必要なことから、これまで政府は滑走路下の遺骨収集を決断できずにいました。遺族も悲願ではありながら、表だって言い出すことができない状態が続いていました。
平成15年、国会議員による「硫黄島問題懇話会」を組織して会合を重ね、所管する防衛省、厚生労働省など政府に事業実施を求めてきましたが、実現は困難を極めました。

 その空気が変わったのが、第二次安倍政権になってからでした。平成25年4月14日、安倍総理は硫黄島を視察し、総務大臣であった私を同行させました。私は現地で総理に詳しく状況を説明し、遺族の長年の悲願であることを申し上げたのです。総理が滑走路に正座をし、御遺骨のために祈りを捧げたシーンは当時大きく報道されましたが、これによって総理が本格的に遺骨収集に乗り出すことを最終決断してくれたのです。

 すぐに衛藤晟一首相補佐官をリーダーとする「硫黄島に係る遺骨収集帰還推進に関する関係省庁会議」が発足し、具体的にどう遺骨収集を進めるか検討を開始。困難もありましたが、ひとまず滑走路を移す予定地の御遺骨を調査したうえで滑走路を移設し、その後、滑走路地区全体の掘削と遺骨収容を行うことが正式決定されました。作業は、すでに昨年度より始まっており、レーダー探査によって確認できた滑走路下の壕の探索が行われています。滑走路の移設については最も効率的な手法、予算が最少で済む方法を検討している最中です。

 さらに現在は国会において、「戦没者の遺骨収集帰還事業は国家の責務である」とする議員立法が自民党を中心に準備されています。先の大戦による海外戦没者約二百四十万人のうち、すでに収容できたのは百二十七万柱。未収容が約百十三万柱で、そのうち約三十万柱は海没しており探索が困難です。中国、北朝鮮など相手国の事情で収容困難なのが約二十三万柱。私たちが探し出し、お帰りいただかなければならない御遺骨は、まだ約六十万柱もあるのです。硫黄島だけを考えても、すべての御遺骨の調査、収集が終わるまでに何年かかるか分かりません。しかし、70年待ったのです。どんなに時間がかかっても、必ずやり遂げなければなりません。

 70年という月日が経ち、最近とみにあの戦争は何だったのか見つめ直そう、本当のことを知りたいという機運が高まってきたと感じています。日本は戦後、大いに反省し、二度と戦争はしないと誓いました。平和な国を作ることは、絶対に変えてはならない日本の国是です。国家運営の一端を担う者として、国民を不幸にしてはならない、と強く心に誓っています。

 一方で、国のために自分に与えられた任務に忠実に従い、死力を尽くした人たちを慰霊し、顕彰することは、戦争を美化することと同一ではありません。時間が経ち世代が変わっても、私たちは現在の平和が英霊の皆様の貴い犠牲者の上に成り立っていることを胸に刻み、決して風化させることなく次の世代に伝えていかなければなりません。もう二度と悲しい戦争が起きないよう、平和の誓いを持ち続けることが大切であるとお話しました。



【動画】月刊「WiLL」インタビュー取材(1)



【動画】月刊「WiLL」インタビュー取材(2)



【動画】月刊「WiLL」インタビュー取材(3)


【参考】
【動画】硫黄島「日米合同慰霊追悼顕彰式」(日米再会の碑)、「戦没者慰霊追悼式」(天山慰霊碑前) (2015年3月21日)
【動画】硫黄島・英霊への鎮魂歌『ふるさと』 (2015年3月21日)
【動画】硫黄島・英霊への鎮魂歌『椰子の実』 (2015年3月21日)
【動画】硫黄島・英霊への鎮魂歌『里の秋』 (2015年3月21日)