生い立ち~現在

平成24年10月 自民党シャドウ・キャビネット経済産業大臣に就任

平成23年1月 衆議院 決算・行政監視委員長に就任

 

 

 

 
衆議院 決算・行政監視委員長に就任。国会版「事業仕分け」、福島原発事故と政府の原発政策の検証、尖閣諸島への上陸調査の検討、復興予算の使途の検証など、予算の使い方について多方面から議論。

平成22年9月 自民党領土に関する特命委員会 委員長代理に就任
自民党領土に関する特命委員長代理に就任。石破委員長とともに、竹島・尖閣・北方領土など、我が国の領土と主権をめぐる問題について、自民党の議論を主導。

 

 

 


平成21年8月 第45回総選挙で当選(4期目)

自民党への大逆風が吹き荒れる中、112,920票をいただき、4期目の当選。
自民党埼玉県連会長に就任、党再建に力を尽くすことを誓う。

平成17年9月 第44回総選挙で当選(3期目)

「郵政選挙」と呼ばれた第44回衆議院議員選挙にて、138,376人ものご支持を賜り当選を果たす。選挙後の第163回特別国会で、経済産業委員会理事、郵政民営化に関する特別委員を拝命。

平成16年9月 学校法人 川口ふたば幼稚園 園長に就任

子どもたちの教育に半生を捧げ、およそ7,000人もの園児を送り出した亡き母、新藤たか子の遺志を継ぎ、学校法人 川口ふたば幼稚園の園長に就任。政治家として、また教育者として地域発展に向けた活動を続けている。

平成15年10月 第43回総選挙にて惜敗

平成15年10月 雨中の出陣式

平成14年10月 外務大臣政務官に就任

小泉改造内閣の大臣政務官26人が10月3日内定した。新藤代議士は外務大臣政務官に就任し、翌4日総理官邸にて小泉総理より辞令が交付された。

引き続き官邸にておこなわれた大臣政務官会議では、小泉総理より「政務官は省庁と国会・党を結ぶ連絡役としてだけでなく、大臣や副大臣をサポートし、国会答弁も行っていただく重要な役目。小泉内閣の構造改革をより一層強力に推進していくよう一致団結して頑張って下さい」と新政務官に激励の言葉が送られた。発足以来一年半を経て初の改造をおこなった小泉内閣は今まさに正念場を迎えており、新藤代議士は再び内閣の一員として総理を支え、改革を推し進めていくこととなった。

その後、外務省に到着した新藤代議士は、前任者からの引継ぎを行い、交代式典に出席。講堂に集まった300人の外務省職員を前に、川口大臣以下、新旧副大臣及び政務官が挨拶した。新藤代議士は「外務省の抱える問題は山積している。

国民からの批判は期待の裏返しと考えよう。皆さんと国民をつなぐ役として、国益を念頭におきつつ、一緒に明るく元気な外務省をつくっていくよう努力したい」と述べた。

“北米・中東・アフリカ地域、経済協力(ODA)、軍備管理・軍縮問題”を担当することとなった新藤代議士は、今回任命を受けた3人のうちの筆頭政務官に就任。コソボ支援を皮切りに、トルコ震災支援やアフガン支援活動など自民党NGO支援小委員長としての活動や、外交副部会長を始め外務省改革小委員会やODA改革ワーキングチームのメンバーとしてその改革の指針をまとめ上げるなど、これまでの活動が総理の目にとまったものと思われる。

「顔の見える国際貢献」を自らのライフワークとする新藤政務官の今後の活躍が期待される。

平成13年5月 新藤代議士、総務大臣政務官就任

5月7日、小泉内閣の大臣政務官26人が決定した。本日の臨時閣議後、小泉総理より正式に辞令が交付された。自民党22人、公明党3人、保守党1人で、埼玉県からは4人が選出された。新藤代議士は、総務大臣政務官に就任した。

大臣政務官を拝命した総務省は、2001年1月の省庁改革により、旧自治省・郵政省・総務庁の三省が統合された巨大官庁で、地方自治、IT情報通信、郵政三事業、行政組織、公務員制度、特殊法人、恩給、統計 等を所管する内政の総括的官庁である。総務大臣を先頭に、副大臣に次ぐNo.3が大臣政務官で、その下に事務次官以下職員が配され総員30万人を擁することになる。

また本日は辞令交付式の後、恒例の首相官邸での記念写真撮りが行われたが、その際官邸職員の依頼により、新藤大臣政務官はなんと最前列・小泉総理大臣の隣に立ち記念の写真に収まった。

このことについて聞かれた新藤大臣政務官は、「一生に一度しかない機会に、一番よい位置に立つことが出来、大変幸運だった。よい思い出になるだろう。TVのニュースで見た地元の支援者から、あれ位ずうずうしくしなくちゃな・・・・と誉められたのか、けなされたのか判らない祝意を受けたが、決して自分で掻き分けたのではない・・」と、さかんに照れていた。

平成12年6月 雪辱を果たし、2期目の当選

第42回衆議院総選挙は、政権の選択を最大の争点として6月25日投票即日開票で行われた結果、新藤義孝候補が当選を決め前回の雪辱を果たしました。

今回の総選挙は都市部において、民主党の風が強く我が党議員が苦戦する中で、新藤義孝候補が勝利したことは「川口自民」の組織力の勝利ともいえます。

平成8年10月 衆議院で初当選

38歳、市民の手で地元から若き代議士が誕生した瞬間

全国3百選挙区中、最後まで当選が決まらない激戦となり、惜しくも610差で次点になったものの、惜敗率99.2%(100対99.2)で比例区にて当選。地元から何と29年ぶりの与党自由民主党衆議院議員が誕生しました。

平成3年 川口市議選でトップ当選


橋本総理(当時)を招いての新藤総決起大会

今まで培った行政経験を生かし、市議会を経験。平成6年、県政を川口に近づけたいという志から県議会議員出馬を表明。しかし。衆議院小選挙区の施行に伴い『市民の悲願である地元からの衆議院議員を!』という機運の中、自由民主党で候補の選考を。 その結果、満場一致で若き新藤義孝さんが自由民主党公認衆議院議員候補予定者に推挙されます。

リリア開館準備担当となりオープンを見届けて退職

市役所時代の最後の仕事はリリア開館準備担当。未来の川口にふさわしい新しい顔づくりの、企画からオープンまでをやり遂げ、平成2年8月15日に退職。この日は終戦記念日、日本の再出発と自分の再出発を掛け合わせ、地元からの強い要望で、市議会議員を目指します。

市役所時代には、本、資料を漁り市民と話す。この時に今の基盤を。

明治大学から市役所へ 地方自治を11年経験

川口市立前川小学校、浦和市立岸中学校、明大付属中野高校を経て明治大学文学部へ。中・高・大ともサッカー部にというスポーツ少年でした。

昭和55年大学卒業と同時に『地域のために』という祖父母の意思を継ぎ川口市役所へ。都市計画畑を歩きます。この地方自治の経験が、いま国での地方分権政策に大変役立っています。

映画監督の父と、女優の母のもとに昭和33年誕生

映画監督と女優の恋…そして義孝が生まれた。

映画全盛時代、大映で映画を撮っていた父と、ニューフェイスだった母が出逢い結婚し、昭和33年1月に新藤家の長男として誕生。両親は、川口ふたば幼稚園を創立。今や児童数五百人を超える県下最大の幼稚園に。新藤さんは副園長を務め、幼児教育の専門家の一面も。

ふたば幼稚園の子供たちとともに。教育は専門です。

母方の祖父は、硫黄島で玉砕した栗林忠道陸軍大将


祖父は硫黄島最高司令官で陸軍大将の栗林忠道。

父方の曾祖父は村会議員、祖父は川口市議会議長も務めています。代々地域のために働いた家系です。母方の祖父は、硫黄島最高司令官の栗林忠道。東京への本土決戦を食い止め、玉砕した陸軍大将です。

鎌倉幕府が開かれて以来、代々川口に800年

1192年、今から800年前、頼朝の布陣でこの地へ。

新藤家は、鎌倉幕府が開かれたとき源頼朝の武将・佐々木盛綱の家臣として川口に赴任。以来八百年川口という旧家です。江戸時代この辺りは天領となり、薪屋の屋号で江戸城に薪を納めていました。