竹島問題について(質疑)衆議院外務委員会-18号 2006年5月31日

外務委員会で竹島問題に関して質疑をおこないました。
日韓間の大きな懸案である竹島問題につきまして、所属する外務委員会で2回にわたり質疑を行いました。日韓両国民が共通の歴史認識をもち、感情論によらない客観的な議論が広がっていくよう望みます。

2006年5月31日 衆議院外務委員会 新藤義孝質疑

○新藤委員 おはようございます。新藤義孝でございます。

 本日は、私、竹島問題について、いろいろ歴史的事実、またこのたびの海洋調査、これに関することで御質問させていただきたいというふうに思います。

 まず、麻生大臣、塩崎副大臣、連日御苦労さまでございます。

 麻生大臣、もうお聞きかもしれませんが、ぜひ私は外務委員の皆さんにこの歌を聞いていただきたい。韓国のカラオケ屋には必ずある歌でございます。これは、歌詞がお配りした資料の二枚目にございますので、ぜひごらんください。(録音を再生)

 こんな感じで、五番まであるんでございます。麻生大臣のセンスにはちょっと合わないような気がいたしますけれども。これは、一九八二年に大衆歌謡として韓国で生まれて以来、非常に愛唱されている、それから最近はいろいろな場面で韓国で歌われているということでございます。「トクト(独島)は我が地」、こういう歌なんです。ここで、島がどこにあって、それから歴史的に独島というのは韓国の島だったんだ、こういうことをずっと言って、これはもう刷り込み効果というか、愛唱歌として韓国の人はみんな知っている。ですから、独島、竹島は韓国のものだ、これが考えもなしにすっと当たり前のように皆さんでお考えになっているということなんです。

 そこで、ちょっと外務省に確認したいんだけれども、四番の詞で、チジュン王十三年、五一二年のころ、島国、于山国、それから世宗実録、地理、五十ページ三行目、ここでもう歌われているんだ、だから古代において独島は我が地だったんだと証明されているというんですけれども、これについて、外務省、ここの于山国、これは独島のことなんでしょうか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 今先生が御指摘になった于山国につきましては、何を指すかは明確ではないと思います。

 理由を御説明させていただきますと、ここにも載っております世宗実録でございますが、この中に、于山及び武陵の両島は于山国と称せられるとの記述がございますが、少なくともそこでの具体的描写の概要は、両島の距離は隔たることないといったものになっております。これが相互に現在九十キロ離れた竹島と鬱陵島の地理的状況に合致するとはとても考えられないということでございます。

○新藤委員 先に申し上げればよかったんですが、きょうお配りした資料の一枚物で、この四番にある世宗実録というもの、この原文をおつけいたしました。こういう漢文のようなものですからわかりづらいですけれども、でも、最初にございますですね、一行目に、二島は遠くないですよと。風が吹いて、日当たりがよく、明るくて、そしてよく見えると。これは、新羅に後で吸収されるわけですけれども、于山国。でも、ずっといくと、一番左の最後の方には、土地肥沃、それから竹は柱のごとし、ネズミは猫のごとく大きい、こうなっているんですけれども、我々が見ている竹島は岩山でございまして、竹なんか一本も生えていないし、水も出ないわけですから、ネズミや猫がいるわけがない。

 そして、しかも、この鬱陵島と竹島という、きょうお配りした資料の一番最初のページでございますが、竹島というのは、隠岐諸島から百五十七キロ、竹島と一番近い韓国領である鬱陵島というのは九十二キロあるわけです。于山国というのは鬱陵島の周辺の島だった、こういうことになっているわけでございまして、九十二キロで、百キロ近く離れていて、これを遠くないというのかどうなのか。いろいろ含めて、どうも于山国というのは、これは鬱陵島のことじゃないか、そういうことを推測する文献もいろいろあります。

 それでは、この鬱陵島に対して、では、もう一つ島があったんだ、竹島、独島。この独島は、このときはどういうふうに呼ばれていたのか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 昔の、昔といっても十七世紀のころでございますが、さまざまな文献とか地図を見ますと、竹島及び鬱陵島の呼称をめぐっては混乱が見られます。史実及び経緯に照らしますと、一六九六年の幕府による渡航禁止というものがございますけれども、当時竹島と呼ばれていた現在の鬱陵島を対象にしていたということもありまして、現在の竹島を含むものではないというようなこともございます。

 いずれにしても、呼称につきまして混乱をしていたという事実がございます。

○新藤委員 竹島は何と呼ばれていたんですか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 当時、松島と呼ばれていたこともございます。

○新藤委員 鬱陵島及び竹島、この付近の領有をめぐっては、かつての李氏朝鮮、それから大韓帝国と日本の江戸幕府、それから明治政府、かつて何回かその領有権の争いがあると私は調べてわかりました。数えただけでも、徳川幕府のころに、一六九六年にまず渡海禁止令があった。今外務省、御説明ありましたね。それから、天保八年に、やはり徳川幕府が渡海禁止令を当時の鳥取藩とか対馬藩とか、そういうところに出しているわけです。それから、江戸のころもそうですが、明治になりまして、明治十六年にやはり明治政府が竹島に対する渡海禁止令を出している。これ、あるわけです。

 最終的に、明治三十三年に、大韓帝国からの要請に基づいて、そして明治政府はこの竹島を大韓帝国の領土である、こういうふうに確定しているわけですね。これは歴史上の領有なんです。それは一体どこのことなのかということなんです。今まで日本と韓国が、かつて古代から中世において領有権をめぐって争っていたその島はどこかということ。どう確認していますか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 韓国側が竹島と言っていたとき、日本の中でもいろいろ呼称について混乱があるわけでございますが、さまざまな資料を見ますと、明らかに現在の鬱陵のことを竹島と言っていたというふうに思われます。

○新藤委員 今ちょっと外務省もびっくりしたかもしれません。私の言い方が、竹島を韓国領、大韓帝国領として認めたと言ったからびっくりしたんだと思います。ここに最大の混乱があるわけですよ。明治の三十八年に明治政府が、今の竹島を日本国として正式に手続をとって領土とした。そのときに、明治三十八年に領土としたときに初めて今の竹島という名前になったので、いろいろな名前はありますけれども、それまではずっと日本名は松島だったわけですよ、この韓国が独島と言っている竹島は。それで、これは日比谷公園ぐらいしかない面積のところ。人も住めないし、漁業の中継地だったり、さっきから出ている鬱陵島への中継基地として使われていた、こういうことが歴史的な文献で出てくる。

 一番最初に私がお配りした資料の中にございますが、鬱陵島という大きな島がございます。これは七十三平方キロでございまして、世田谷区より大きいです。そういう大きな島があって、これは一島だけではなくて、周りに、鬱陵島の拡大図のところには竹島という怪しい名前もあります。ここは竹がいっぱい生えているわけです。だから竹島だったんです。

 でも、ここをめぐっては、李氏朝鮮、要するに、朝鮮族の皆さんがこの島は自分たちのものだということで、それに対して明治政府が鬱陵島はそれでは認めましょうとなった。でも、今までの、過去の領有権を主張した中で、この松島について、両国の政府や、いろいろな手続的に、日本がここをずっと使っていることはあっても、渡海禁止令の中に含まれたことは一度もないんじゃないですか。どうですか。

○梅田政府参考人 先生御指摘のとおり、現在の竹島は、十七世紀当時は松島と一貫して呼ばれております。

 歴史的な背景を少し敷衍させていただきますと、一六一八年以降、伯耆の国、現在の鳥取県の一部でございますけれども、大谷及び村川両家が幕府から鬱陵島への渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上しておりました。この間、当時の松島、すなわち現在の竹島は、鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されておりました。さらに申し上げれば、大谷、村川両家は、遅くとも一六六一年には幕府から現在の竹島を拝領しております。

 いずれにしましても、これらの史実に照らしますと、我が国は、遅くとも十七世紀の半ばには竹島を有効に支配していたというふうに考えております。

○新藤委員 これは、調べれば切りがなくいろんなものが出てきます。そして、韓国側は、独島研究保全協会ということで、「韓国の領土・独島物語」という資料をつくって、日本語に翻訳して、外務省が持っている資料だけれども、私もいただきました。

 あらゆるところで、ここは昔から韓国の島だったんだ、こういうふうに言っているんだけれども、例えば、きょう一つ資料を出した、カラー刷りの資料がございます。これは一五三一年の東国輿地勝覧ということですね。このときは、李氏朝鮮だと思います。ここで、非常に見づらくて恐縮なんですけれども、黄色の丸で囲んだところ、右側が鬱陵島と書いてあります。それから左側が于山島で、ここが独島だと言っているんだけれども、さっき地図で見ていただいたように、明らかに、九十キロ離れた東側に竹島はあるわけで、ここの、もう既に一五三一年の韓国側が出している資料の中で、于山島というのは鬱陵島と並んで、しかも同じ大きさ。片や日比谷公園並みの面積、片や世田谷区より大きな場所、これが同じ場所に並んでいる。この状態を見ても明らかじゃないか。この于山島というのは鬱陵島近辺のことであって、竹島ではないですよ。

 しかもこれは、鬱陵島に独島博物館というのがあって、そこに御丁寧に掲げてあるんだそうですよ。ここの表示は何と言っているかというと、于山島の位置を鬱陵島の内側に書いたが、むしろこれは于山島の領有意識をもっと強烈にあらわしたことになると言っているわけだよ。これが間違っているかどうか、私は間違っていると思いますけれども、こういう状態でいる。

 私は、実はこのことに関心を持って、自民党の領土に関する委員会だとかそういうのがここで開かれて、いろいろ研究しました。そうしたらば、余りにも私も知らなかったことに気がついたんです。一方で韓国側は、独島は我が地ということで、昔の世宗実録だって、あれは鬱陵島のことを言っているとしか思えないような、そういうものでもって歌までつくって、独島は我が地だ、我が地だと。だれもみんな疑いなく、我が地だと思っているわけです。日本側は、一体これをなぜきちんと正さないんだ。私は、この歴史的な事実というものをしっかりと押さえるべきではないかというふうに思うんです。

 それから、時間がございませんので、これは本当は、じっくり一個ずつやっていくと、みんなおかしなことだらけなんです。このことに関して日本政府、外務省は、交渉のテーブルにおいて、この歌はおかしいですよ、それからこの表示もおかしいですよ、独島のこういう韓国側がつくっているものに対して、きちっと反論を今まで交渉のテーブルに着いてしてきたのかどうなのか、これはまずどうですか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 本当に過去の交渉の経緯については調査する時間をいただきたいと思いますが、最近のいろんな場においてこの問題を取り上げるに当たって、今先生が指摘された点、そこまで詳細な点にわたるやりとりはしたことはないと承知しております。

○新藤委員 これはぜひ、両国の歴史の専門家が見なくても、事務的な、外務省、お互いの役所の方たち同士の交渉の中だって、十分にお互いに検証できるものだと思いますよ。

 私が漏れ聞いている話では、この歴史の話をすると韓国側が猛烈に怒って、昔の細かい話できない、昔の細かい話するな、とにかくあなたたちが日韓併合したんだ、この歴史問題だというのでそれっきりになってしまうということなんだけれども、それでは自分の図面をわざわざ、位置が違って、昔の文献、間違っている文献じゃないか、まで使っているのを、これも、何かそこを追及しようとすると怒るというのでは、交渉にならないじゃないかということなんです。

 それから、ぜひこれは日本の国民に対しても、これをもっと、当たり前のことなんだから、竹島の真実としてわかりやすく知らせるべきだと思うし、外務省のホームページにはよく読むとそう書いてあるけれども、さらっと読めば全然わかりません。しかも、図面がついているわけじゃない。位置関係がわかるわけではない。今、外務省のホームページを検索すると、竹島関係で七十件ぐらいなんですね。それで、北方領土を調べると三百件ぐらい出てくるんだよね。

 だから、やはり竹島問題を、少なくとも、戦争が終わって李承晩ラインが引かれる、区切りとしては、明治三十八年に竹島を日本の領土として正式に明治政府が手続したとき、それからその後、四十三年でしたか、日韓併合があって、そのときは鬱陵島も竹島もすべて含めて日本になっちゃったから、そこには領土問題がなくなっちゃった。それが、戦争が終わって、昭和二十年に占領国の管理下に入って、そして二十七年にサンフランシスコ講和条約において、日本の独立と、また領土が画定されたわけです。

 このときに、これは質問していると時間かかっちゃいますから申し上げませんけれども、サンフランシスコ講和条約を調印したときに、そのときは、日本が韓国に返す領土として鬱陵島、巨文島、それから済州島、これは日本が領土膨張する前は持っていなかったところだから、韓国のものだと。

 そして、竹島については、これはわざわざ御丁寧に韓国の駐米大使が、竹島も韓国の領有とすべきだ、そういう文書を書いたらば、米国務省の極東担当次官補が、竹島は朝鮮の一部として取り扱われたことはなく、一九〇五年ごろから日本の島根県隠岐支庁の管理下にある、この島はかつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとはみなせないと。これは、日本ではなくて連合国司令部、アメリカの国務省次官補が明快に韓国に対して文書で返しているわけじゃないですか。それを不服として、条約上に竹島を入れられないならばといって、条約を調印してから発効するまで、今度は翌年の四月二十八日に発効するまでの間に、一月二十何日ですか、李承晩がラインを引いてしまった。以来、不法占拠しているということじゃないですか。

 少なくとも、近世から江戸に、明治までにおいては、これは領有は、日本が実際に使っていた。それから日韓併合を経て、そして李承晩ラインが引かれるまでも日本の領土として国際的にも認められていた。そして、その後は不幸な状態になっている。不法占拠だ。ここをきちっとやはりやるべきだと私は思うんですよ。

 こういうことを、例えば北方領土なんか漫画で、私、北方領土の島民に配ってきたことがございます。私も択捉島に上陸していますから。これを日本できちんと、外務省、そういう資料をつくって、特に大臣は造詣が深いわけですから、そういうわかりやすいものを出して、客観的事実として、こっちのものだとかなんとかという以前に、事実としてこうですよということを明らかにすべきじゃないですか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 先ほど先生から御指摘のありましたホームページの充実も含めまして、資料の整備については努めていきたいと思います。

○新藤委員 それでは次に、過日の、四月に少し摩擦がというか騒ぎが起きました。竹島周辺の海路、海洋調査について、このことについてちょっと聞きたいと思います。

 まず、日本側が四月の十四日に水路通報十五号ということで、竹島周辺の海域の海洋調査を、水路測量を行います、こういうことで水路通報を出したわけですね。これについて、どういう内容のことをやろうとしたのか。それに対する韓国側の反応はどうだったんですか。

○梅田政府参考人 お答えいたします。

 日本側の調査につきましては、日本側が主張しておりますEEZ内の海底地形についての調査を行うということでございます。それに対しまして、韓国側からの反応でございますけれども、まず、四月十四日に、柳明桓外交通商部第一次官が大島大使を呼び、この調査に関連しまして、厳重な抗議と即時撤回を求める旨の申し入れがありました。

 さらに、この調査につきまして、安倍官房長官が同日、我が国のEEZ内でこうした調査を行うことは国際法上の観点も含め何ら問題はないということを述べられましたが、それに対して先方は、外交通商部のスポークスマンの発言という形で、国際法を日本は恣意的に歪曲しているだとか、不法な計画を即時撤退しなければならないといったようなコメントを出しました。

○新藤委員 時間が終了しておりますので、またこれは次回、申しわけありませんが、海保の人、来ていただいたんですけれども、この問題を私は取り上げたいというふうに思っています。

 今日言っていただいたように、まず資料をきちんとつくって、日本の国民と韓国の国民に、政府同士じゃなくて普通の我々がわかるように、そういう広報を心がけていただきたいとお願いして、質問を終わります。

 ありがとうございました。