第91号 私たちの街は昔 海だった ~前野宿貝塚遺跡を訪ねて~


 私たちの街で、たくさんの原始・古代遺跡が発見されていることを皆さんはご存じでしょうか。
 今からおよそ6,000年程前は、気候の温暖化により最も海面が高くなっていた頃で、川口市の戸塚・神根・安行・新郷や鳩ヶ谷市北部などの大宮台地の高
台を取り囲むように海水が入ってきていました。そして、かつて海だった低地との境には、川口で最も古い6,000年前の小谷場貝塚、縄文時代晩期の土器が
最初に発見された安行の猿貝貝塚、5体の人骨が見つかり新郷若宮公園として整備されている新郷貝塚をはじめとし、多くの貝塚が残っています。
 「こうした縄文時代のタイムカプセルは、人間と自然のあり方について私たちに語りかけてくれます」遺跡の発掘にあたっている市の教育委員会の方はこう言
います。縄文人が残したメッセージとは何なのでしょうか。今回私は、今年1月から発掘調査が行われている前野宿貝塚遺跡を見学に行きました。


◆ 発掘現場を視察して

 川口市の東本郷にある前野宿貝塚遺跡。今からおよそ2,800年前のものとみられているこの遺跡は、過去の調査では竪穴式住居跡なども見つかり、県選定重要遺跡になっています。
 私が伺ったときには、30名近くの方たちが発掘作業にあたっていました。小さなシャベルを片手に慎重に土の表面をなぞっていた方が、自分がたった今掘り出したという土器の破片を見せてくれました。
 貝塚は、縄文の人たちが食べた貝の殻や魚や獣の骨などを捨ててできたものです。多数の貝がらにまじって、土器や石器なども発見されます。
 火山灰が堆積してできた関東ローム層の土壌は酸性なので、長い年月の間には人も獣も魚も骨は分解してなくなってしまいます。しかし貝塚は、貝のカルシウムが土をアルカリ性に保ちたくさんの遺物が残り、様々な情報を得ることができるのだそうです。
 例えば、この遺跡からはハマグリやオキシジミの貝殻が大量に出ていますが、それぞれの貝の生息地から、すぐ目の前まで砂浜が広がっていたことや、川が近
くに流れていたことなどがわかります。木の年輪のように見える貝の成長線を観察すると、その貝がいつ採取されたものかといういこともわかるのだそうです。
 
私たちの街は地形の高低が複雑なため、植物も動物も豊かな資源をもたらしてくれました。バランスのとれた食料が確保できる環境にあったと考えられていま
す。トチやどんぐりなどの実をつぶして灰汁抜きをしたものを水で練って焼き、クッキーをつくっていたことも確認されています。
 この遺跡からは、他にも、シカのあごや歯、イノシシの骨、また石斧や縄文人の耳飾りなどもみつかっているそうです。
 掘り出された大量の土は、持ち帰ってふるいにかけて、魚の骨やうろこなど小さな貴重な遺物を調べます。根気の要る作業です。


◆ 縄文人の暮らしを想う

 この前野宿貝塚遺跡が営まれた頃には、数世帯の家族が共に暮らす20人程の規模の集落をつくっていたと考えられています。当時はこうした集落が市内に数箇所あったとみられており、当時の川口の人口は、多くても500人程度だったものと思われます。
 寿命は30歳ほど。多産で1人の女性が5~6人の子を産みますが、そのうち2/3は幼児期に亡くなってしまっていました。
 魚や獣を捕ったり木の実を採ったりして食べ物としていた彼らは、それを捕るための道具やおいしく食べる方法などあらゆることに知恵を働かせながら生活し
ていました。それらはすべて自然からの恵みであり、縄文の人々は自然そのものを神とし、豊かな恵みを授かったときには心からの感謝を捧げていました。竪穴
住居の中では家族が炉を囲んで団欒し、祖先からの知恵を語り伝えていました。
 縄文人の持っていた、自然との共生、家族愛、そして物を大切にし感謝する心など、そうした精神はほんの数世代前までは確かに私たちにも受け継がれていたはずのものです。
 縄文人の2倍以上長生きできる現代の私たちは、はたして2倍以上の恵まれた人生を送っていると言えるのでしょうか。発掘現場に立って、ほんの1~2m下に広がる数千年前の人たちの暮らしを想像し、ふとそんな感慨を抱きました。


◆ 文化財センターで縄文時代を体験!

 現在川口市では、旧中央公民館の跡地に、街の歴史資料を展示する市立文化財センターの整備を進めています。私の見た、この前野宿貝塚遺跡で発掘された出
土品と出会えるかもしれません。土器づくり体験教室なども検討されているようです。一般公開は6月頃の予定です。ぜひ皆さんも、悠久の古代に想いを巡らせ
てみてはいかがでしょうか。

新 藤 義 孝