日本国憲法に関する件(質疑) 衆議院憲法調査会-4号 2000年11月09日

日本国憲法に関する件

150-衆-憲法調査会-4号 平成12年11月09日

○新藤委員 自由民主党の新藤義孝でございます。
 佐々木参考人には、大変意義ある、そしてまた興味深いお話を賜りまして、心から感謝を申し上げたいと存じます。そして、きょうお話しいただいた、佐々木先生の今のお話をもとに、また私なりに、高名な政治学者でいらっしゃいます先生に御質問をさせていただきたい、このように思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 私は、最初にお断り申し上げておきますが、ごらんのように三十三年生まれで、世代的にはこの中で最も若い方の部類です。先ほど先生がお話しされました、憲法に対する考え方、また国家に対する考え方が国民の中でいろいろ変わっているようだというお話がございました。ですから、多分その変わっている方の部類に入ると思いますので、少しぶしつけになるかもしれませんが、お答えをいただければありがたいな、このように思います。
 まず私は、今回まさに先生がおっしゃいました政治主導、これは、政策の体系を整える、それからそれを実際にできるように計画する、それがまさに政治だと思っております。ですから、政を治める、物事を決めていくのが政治、そして政を行うのが行政だ。ですから、官僚をうまく活用しながらリーダーシップをとって物を決めていくのが政治なんだと。だから、ある一面で、もう役所は要らぬ、政策、法律は全部自分たちでつくるというような声もあるけれども、私はそこはちょっといろいろ考えた方がいいな、こういうふうに思っているのです。
 きょうの憲法の話なんですけれども、五十三年たちました。世界で十五番目に古い。しかも一度も改正されていない。私どもはそれが当たり前のように大切に、先生も何回もお話しいただきました、不磨の大典という形になっておるわけなんでございますが、ドイツは四十六回、先生に釈迦に説法でございますけれども、一週間前に四十七回目の改正があったそうでございます。そしてフランスも九月に十四回目の改正ということなんですね。
 御案内のように、我々はこれをどうしてこんなに大切にするのかな、もちろん国家の基本法ですから大切にするのは当たり前なんですが、なぜさわってはいけないんだ、ここが私は不思議で仕方がないのです。無理に直す必要もないけれども、さわることを許さぬというのは私には全く理解ができないということでございます。
 そして、実は、そういう意味で政治主導のもとで憲法調査会がこの衆議院に設置された。その前に、二年間でしたか、中山先生また先輩方が御努力をされて憲法制度調査会設置推進議員連盟というのができておりまして、私もそこに入っておりました。
 今でも忘れられないのですが、二年前でございましたか、憲法五十年を記念して、GHQのまだお元気な方に三人おいでいただきましたけれども、憲法調査会のシンポジウムをやったのです。よく覚えておりますけれども、そのときに、憲法草案にかかわったとされる方のお話は、この憲法は確かにマッカーサーから指示を受けて民政局で六日間でやりました、そしてそれは日本の占領下における私たちがつくった憲法だと思っておりました、独立後は自主憲法を制定しているものだと思っておりましたが、まさか五十年間、一字一句変えずに使っていただけるとは思いませんでした、ありがとうございましたと。そういうことを向こうから来た人がおっしゃったときに、何と皮肉なことかな、こういうふうに思ったわけでございます。
 そこで、私は、だから直せばいいんだとは思っておりません。ただ一方で、時代にそぐわないところが出てきている。それから、先ほどから先生がおっしゃっていらっしゃる、政治が主導して国の形、そして国の方向の基本を整えるものとして、これは今まさに時代が変わろうとしている中、大いに議論していかなくてはならないのではないか、このように思うのでございます。
 そこで、これは本当に基本的なことなんでございますが、先生は、憲法改正の手続の問題、そして発議と国民投票、こういうことにお触れになりましたが、私はもう一つその前に、一体全体この憲法は、原案をつくるのはだれがどういう形で作業をすべきなのか、このことも考えるべきだと思っているのです。
 我々は、政を治め、そしてルールを決めていく仕事です。でも、決める前に、原案となるもの、立法作業といいますか、これは一体どういう形で行われていくべきなのか。これは、通常の法律と同じように、我々が議員立法でやっていくやり方もあると思います。しかし、国の基本となる憲法が果たしてそういう形でいいのかどうかというところに私はちょっと疑問を持っておりますし、法律学者として先生の御見解をいただければありがたいと思います。
 例えば、大日本帝国憲法はだれがつくったのか、実際に書いた人はどなたなんでしょうか。そして、アメリカの憲法もそうです。ジョージ・ワシントンが出したといっても、一体だれがそのとき書いたのか。私は、審議のたたき台になる、また我々がこれから議論していくことはその原案の中に盛り込んでいくかもしれないことなんでございますが、これを一体全体どこがどういう機関でやるのかということは、実は非常に政治の役割として大きなことになるのではないかというふうに思うのです。
 今の日本国憲法は、大日本帝国憲法改正案という形で出た。これも、今いろいろ資料がございまして、読むと極めて興味深いのですが、ホイットニー民政局長のもとでメンバーがやった。そして、マッカーサー三原則とアメリカ憲法及び州憲法、ワイマール憲法、フランス憲法、ソ連憲法、それから前文はアメリカ憲法とリンカーンのゲティスバーグ演説、テヘラン会議宣言等々が参照された。そして、その当時出していた日本案はほとんど重要視されなかった。ただ、一方で、唯一重要視された、GHQが参照したのが、学者さんの私的グループによる憲法研究会、これが発表されたものについては重要視されたというようなことが過去の歴史を振り返ってみると出てくるわけなんです。
 今私たちは、九条をどうしましょうとか、前文をどうしましょうとか、そういう議論に入っている場合もあります。ただ、政治主導として行って憲法をつくっていく過程、これはもう少し考えを深めるべきことがあるのではないかなというふうに思っているのでございますが、先生の御意見をいただければ大変ありがたいと思います。

○佐々木参考人 今、いろいろな形での憲法のつくり方についてお話があったかと思います。つまり、ゼロから全面的に変えるというような場合ももちろんあるわけでございまして、ですから、それぞれ、どういう範囲のものを変えるのかというようなものによって、つくられる仕組みというものに多様なものが出てくる。だから、憲法をつくるための特別の国会みたいなものをつくってやるというケースも、もちろん昔はあったわけでございます。
 ただ、今先生言われたようなお話のうち、例えばこの中のある部分について変えるというようなことを考えるとしますと、その手続というのは、もちろん各党で事実上いろいろなアドバイスを受けるなりなんなりというのは幾らでもおやりになって結構だと思いますけれども、第三者の審議会みたいなものに投げるというのは、先ほど来議員が言われた趣旨とも非常に違うのではないだろうか。
 私自身、確たる提案があるというほどのものではございませんけれども、例えば国会にこういった、調査会なのか何なのかわかりませんけれども、憲法を議するコミッティーみたいなものがアドホックであれ何であれつくられるということがやはり一つのベースになるのではないだろうか。いつもつくっておく必要はないかもしれませんけれども、そのことを考え続けるための場があるということはそんなに不自然なことではないだろうというふうに私自身は考えております。
 ですから、どういう委員会かわかりませんけれども、何か憲法を扱うコミッティーといったようなものを舞台にして、そこで、果たしてどういう手続でもってどれだけの賛成があればどうだこうだという話は、これは最後は非常に政治の問題になろうかと思うのですけれども、ある程度議論を煮詰めないと、国民に対して提案をすることはできないのは言うまでもございません。
 ですから、どこまでが煮詰まり、どこまでは対立点は残るんだけれどもあえて提案するという形にするのかどうかというようなことについて、そういう場で審議をされるというのが一番オーソドックスなやり方ではないだろうか。ですから、事実上のアドバイスその他の問題は全部切り離して申し上げたつもりでございます。

○新藤委員 なかなかどっちと決められるものではないと思うのです。ただ、私は、当然自分たちだけでやればいいんだ、国会で決めればいいんだ、例えば公職選挙法を直すのに国会議員だけで直していいのか、こういうのと同じ部分があるんではないかなというふうに思っておりまして、これは先生からもまさに参考になる御意見をいただければいいなというふうに思っておるのです。
 そして、実は今のお話にもありましたし、先ほどもお触れになりましたが、先生としては結論を出されていないなというふうに思っていることがございます。憲法の改正のことなんですけれども、結局、今論議をしていく中で、先ほどからまさに先生がおっしゃっているように、全面改正すべきなのか、それとも、部分的に国民的合意ができた上、そこからまず改正するのか、こういう二つがあるとおっしゃいました。
 そこで、これは一体どっちがいいんですかということを我々もやっていかなきゃならないわけです。どっちがいいんだとだれも決められないと思うのです、みんな意見はそれぞれですから。
 ただ、政治主導として、今のこの国のこういう状況を見て選択するならば、より望ましいのはどちらなんだ。できるかできないかということではなくて、より望ましいのはどちらなんだという観点からすると、これは、現実的な方をとるか、それとも、対立は厳しいけれども、いろいろともめるかもしれないけれども、全面改正か。これは先生の個人的な感覚で結構でございますので、もし支持をされるとすれば、二つしかなければ、先生はどちらをお選びになるか。
 それからもう一つ、その場合に、改正の手続の問題も出てくるんですね。今、不磨の大典化しているのは、まさに厳格な手続の中で非常に動きづらくなっているという部分があると思います。
 もし作業が進んでいったとして、改正をするということになったとして、果たして、今度改正をする憲法ではその改正の手続は柔軟にするのか。そして、諸外国のようにそれこそ何十回も場合によっては時代によって変わっていくこともある、そういう状況のものにしていった方がいいのか。それとも、やはり日本は日本独自の、一度つくったら五十年、百年、もちろん手続を厳格にすればそういうことがあり得ることになるのではないかと思うのですが、これも、先生のお考えでは、望ましいとすればどちらなのか。ちょっとお答えをいただくのは難しいかもしれませんけれども、参考までに教えていただきたいと思います。

○佐々木参考人 私は、先ほども申し上げたかと思いますけれども、国民生活に非常に重大な影響を及ぼすとおぼしき条項、こういったものは改正ということになりましてもなかなか難しいだろうというふうに思います。これは、必要万やむを得ざる状況に陥って、とにかく何はともあれやらざるを得ないという場合ももちろんあるかもしれないけれども、そういうことでないとすれば、大事なのは、今の御質問と若干ニュアンスは違うかもしれませんけれども、そんなに対立がないようなことでもやってこなかったのかもしれない。発議条件が厳しいからということでそこも全部説明してきたところはなかったろうかというのを、まさに一つは考えていただきたいというふうに思う。
 ただ、全体的な方向として言うと、私は、発議条件を緩和することは十分考えるに値するというふうに思っております。その具体案はいろいろあると思うんですけれども、三分の二という問題もございますし、両院という問題もございますし、それから国民は過半数ですから、これをどう考えるか、それぞれについていろいろな提案があり得るかなと思っております。ですから、改正手続について、今の制度をとにかく何はともあれこれだけは守るべきだという議論に私はくみするつもりはございません。その点だけは申し上げておきます。

○新藤委員 ありがとうございます。
 今の時点ではまだどちらと決めるべき段階にまで来ていないことでもあるんですね。ただ、これから作業していく上で、議論をしていく前提として、やはり先生に今そういうふうにお話をいただいたのは非常に大きな意義があると思っておりますので、御理解いただきたいと思います。
 それから、要は、今までの議論も、結局、本来ならば初めに憲法ありき、初めに法律ありきで、その法律のもとで何ができるのかということを考えるのか、それとも、自分たちのやりたいことや望むことがあって、そして何をやるべきなのか、法律の中でやるのか、それとも法律を決めていけばいいじゃないか、こういう行って来いの議論があると思うんですね。
 要は、それが堂々と憲法を論じられるようになったということは、私は、それだけこの国が成熟してきた、そしてまた、いろいろと御批判いただいておりますが、政治もそういう意味での成熟度を増したんではないかな、このように思っているんです。
 その大前提として、憲法は国の基本となるものですから、その意味で、国民意識とかそれから国に対する国家観、こういうものをこれからどういうふうに我々日本人は持っていくべきかということが大切な要素になってくるんではないかなというふうに思っているのでございまして、きょう先生お触れになっておりませんけれども、恐縮ですが、また参考になる御意見をいただければありがたい、このように思うんです。
 それは、今私たちの国、非常に連帯感が薄れているような、個人個人がばらばらになっている、こういうことをよく言われます。そして、そういう意味での国としての統一性というんでしょうか、国民としての、私たちは日本に住んでいるんだ、こういう一体感が弱いというよりも表に出ていない時代だなというふうに思っているんです。
 これは一方で、不思議なことに、友達同士とか自分にかかわりのあることについては物すごく強烈に結びつくんですね。そのかわり、ちょっと離れて、自分に直接関係ない、所属しているけれども自分には直接関係ない、そういうものについては今度は極めて冷淡になる、こういう不思議なというかおもしろい現象があるんではないかというふうに思っています。
 ふだんは全然知らぬ顔している人たちが、例えばオリンピックだとかワールドカップのときによくわかるんですけれども、もともとはまとまりがいい民族なんだなとそのとき改めてわかります。これ一回でワールドカップに出られるんだ、もう一回勝てばメダルとれるんだ、そのときの日本人の熱狂ぶり、特にふだん白けている若い連中が、おれは君が代なんか知らない、日の丸なんか嫌いだ、こんなことを言っている人たちが外国へ出かけていって、もう一回ここで勝てば日本がワールドカップに出られるとなるとみんなで立って国歌を歌う。
 何か私は、日本人のアイデンティティーというのは、昔の一億総火の玉、これに尽きるなというのが個人的な感覚なんですけれども、そういう底に流れているものと、それから表面上の表現の仕方が今全然違ってきている、このように感じております。
 それに、うがった見方かもしれませんが、これに対して、戦後の日本社会をつくってきたこの憲法や日本の国の進め方、これは影響が出ていないのかどうなのかというようなことを私は感じているんです。
 今の憲法は戦前の軍国主義、全体主義を否定して、基本的人権を尊重しましょう、こういうもとで封建制を壊しましょう、こういう憲法だと思っているんです。個人の権利を尊重しなさい、それから農地解放だとか財閥解体だとか、要するに富や権力の集中を排除した、教育改革や、労働者や女性の解放を行った、これは非常にいい効果をもたらしてきましたけれども、その一方で、無理やり、国家国民だとかそういうことを考えるのはおかしいよ、自分のことを主張しなさい、こういうような風潮を生んできてしまったんではないかなというふうに思うのでございます。
 特に、この憲法の中には基本的人権の尊重規定というのがございますけれども、国だとか公共への義務とか奉仕、こういうものについての規定がないに等しいというか、極めて少ない。教育の義務と勤労の義務と納税の義務しかありません。こういうことがありますし、今話題になっている教育の改革についても、基本法についても、まさに個人を追求しなさい。これは憲法から導き出されてきている道だなと私は思っているんです。
 そこで、長々になって恐縮なんですが、先生、これからの私たちの国のあるべき姿として、一体日本の国、個人の権利と公共や国に対するこういう意識、これはどこまでどういうバランスをとるべきなのか。先生、今現状をごらんになって、私は今のがだめだと思っていませんよ、結局、最終的には日本人はみんなまとまります。でも、今百花繚乱で、議論は自由なんだ。権利を主張することをどんどんやって、そのおかげでいろいろな仕事が進まなかったり、この政治の場もそうなんですけれども、ある意味での混乱も巻き起こっているような気がするんです。個人と国や公共との集団、公のバランス、これはどういうふうにとるべきなのか、お考えをお聞かせいただければありがたいのでございます。

○佐々木参考人 大変難しい問題で、いろいろな観点から議論できる問題を提起されたというふうに思っております。
 ただ、私自身の認識を申しますと、自分の非常にプライベートな利益に関心があるというのは、これは万国共通で、どこもそうです。それから、だんだん豊かになりました結果、日本人は自分の趣味に興味を持つようになった、海外旅行も含めてなんですが、これも議員御案内のような形で、それは確かにふえてきていますね。
 問題は、それだけでいいんだろうかということを、私の世代も含めて国民はやはり考え始めているんだと思うんですよ。それで、そういういわば非常に自分、個人に近いところで満足するというのを超えて、何かしなきゃいかぬじゃないかという気持ちをかなり潜在的には持っているのかな。ですから、これは必ずしも議員のおっしゃる意味と同じかどうかわかりませんけれども、例えば外国の貧しい人々のために自分は何かをしたいんだという言い方もこれはある。
 ですから、それは国とか日本というのに必ずしも一元化されるとは限らないんだけれども、非常に個人ないし自分の周辺のことだけで全部がんじがらめになっているという状態は、ちょっと人間としてのバランス上必ずしも好ましくないなという意識は今の日本に結構存在し始めているのではないだろうか。ですから、そこからどこへどういう形でそれがあらわれていくのかなということについては、いろいろなあらわれ方があるのかなというふうに私は思っております。
 ですから、議員があるいは意図されたことのように必ずしもならないかもしれませんけれども、非常に身近なところだけで何かやっているというので十分だという時代は終わって、それは高齢社会の問題もあるかもしれないし、地域の問題もあるかもしれないし、何か自分たちで、生きがいの問題も含めて、ちょっとパブリック的なことをやってみたいな、あるいはやるべきではないかなという状況に今日本人はいるのではないかなというふうに私自身は思っております。そういうエネルギーをどういうふうにうまく活用していくかというのが、これが政治の側の知恵にかかわることではないかなというふうに思っておりまして、一部お答えになったかどうかわかりませんが、そんな感じを持っております。

○新藤委員 ありがとうございました。もう十分なお答えをいただいております。
 すべてそれが憲法なり法律なりに原因があるわけではない、これは先生おっしゃるとおりです。でもしかし、大きな流れの中で、やはり国が戦前から戦後の大きく方向転換をした大きな目的といいますか、一つになっていると私は思うんですね。ですから、結局、国の基本法たる憲法を論じるときには、一体、日本人と国というものをどういう方向でどの程度でバランスさせておくかというのは非常に重要な問題だ。もちろん、このことは違う考えの方もたくさんいらっしゃいますので、大いにこれから憲法調査会で議論すべきことではないかというふうに思うのでございます。
 最後に、残り時間も少なくなってまいりましたが、これまた先生、非常に総花的とか大枠の話で大変恐縮なんですが、私はそういう自分の物の考え方を長い目で見るようにしたらというふうに思っておりまして、今日本人は、国内においては自分たちはすごいと思っているわけですよ。ですから、国の中では日本人一人一人はみんなそれぞれ自分でプライドを持って物すごく自己主張をします。でも一方で、外国へ出ると、自分は東洋の小さな島国だ、こういうふうに思っている人がすごく多いのですね。外国に出ると、我々日本人はまだ小さな東洋の国だから、こういうふうに言っている。内にあっては、経済にしても何にしても、国内では一流だ、自分たちはすごくレベルが高くなっている、こういうふうに思っている人たちが多いというふうに思うんですね。
 そこで、例えば、アメリカは確かに日本の人口の二倍、国土は二十五倍です。でも、イギリスは日本の人口の半分しかありません。それから、国の大きさは実は日本の六割なんですね。それで、GDPは八掛けです。ドイツにしても中国にしてもしかり。ドイツは大きな国かと思ったら、やや日本の方が大きいのですね。
 国の大きさとか人口で別に競争するわけじゃないのですけれども、これから私たちは、戦争に負けて、そしてその後、奇跡的な復興を遂げて、今こういう価値観が多様化している中で、次の時代の私たちの国の位置、これは国際社会できちんとした尊敬と、それから自分たちの義務を果たせるような、そういう位置を占めるために一体何が大事なんだろう。
 結局、考えてみると、歴史上、今まで日本の国は、あるときまで、ある線まではいいところまでいったと思うんです。明治時代も列強列国に伍して戦うほどにいって、そしてめちゃくちゃになった。まただめになったかと思ったら、もう一回立ち直ってきた。でも、いつでも共通しているのは、やはり東洋の特殊な国で、世界の中で、私もちょっとそれはコンプレックスになっているのかもしれませんが、どう見ても、やはり日本の国力やこれだけの勤勉性を持った国の評価というものはまだ正当なものになっていないのではないかな。だとすると、それは私たちの国の今のあり方に問題があるのではないかなというふうに思うんです。
 非常に総花的とまさに申し上げましたけれども、恐縮なんですが、これからの日本のあるべき姿を考えるときに、一体どんなポイントが重要になってくるのか。国際社会の中の日本ということで、先生のお感じになっていることがあったら、最後に教えていただきたいというふうに思います。

○佐々木参考人 時間もあれですから、簡単に私の考えを述べさせていただきます。
 それはもちろん政府なりなんなりの役割は非常に大きいということはそうなんですけれども、やはり我々が持っている国民の能力を生かす仕組みというものをもっと工夫する必要があるのではないだろうか。まさに政治主導というのも、国民の能力を今までとは違った形で動かしていこうということなのではないでしょうか。だから、そういう点で、まず何か今までなかったようなことをぜひやっていただきたいのですよ。
 これは時間がかかることですから簡単にはいきません。だから、あそこのかなりの数の人々をいろいろな形で政治的なアポインティーとして使えるというふうになったことをどう活用されるのかという、具体的なことで私としてはぜひ成果を見たいなというふうに思っている、例えば外国に派遣する人をどういう形で決めるのかというようなこと一つをとりましても。ですから、いろいろな段階の議論があって、まず隗より始めよというタイプの話もございますので、例えばそういうことも考えられると思うんです。
 ただし、何か非常にまどろっこしい気持ちは私もよくわかります。だけれども、何か特効薬と言われても、これだけやれば十分だというふうなものがあるかと言われると、私は、やはり御時世も変わってきていますから、必ずしもこれだというふうにもなかなか言えないところがある。だけれども、まず足元の問題として言えば、例えばそういうことで随分日本の政府のイメージというものも変えることができるのじゃないか。そういう試みもぜひやっていただきたい。
 これもちょっとまたお答えになっていませんけれども、私の手短な感想だけを申し上げました。

○新藤委員 ありがとうございました。