11月30日、戦没者の慰霊追悼に訪れた硫黄島は曇り、強風の中でしたが、全ての行程を予定どおり終えることができました。(2019年11月30日)

 


11月30日、戦没者の慰霊追悼に訪れた硫黄島は曇り、強い風という予報どうりの天気でしたが、全ての行程を予定どおり終えることができました。まずは、慰霊碑のある天山で21回目となる硫黄島戦没者慰霊追悼・顕彰式典を行い、私も遺族代表として心を込めてご挨拶をさせていただきました。


その後は、本年7月に6柱をお迎えできた遺骨収容壕や、現在作業中の現場で遺骨収容団員を激励すると共に、開削した地下壕の奥まで入ってまいりました。

作業現場は、危険のないよう地面から5〜10メートルほどを面的に開削し地下壕を露出させますが、最後は人がやっと入れる程度の狭く上り下り曲がったりする通路にもぐっての作業になります。


壕周りの取り崩しは重機で行いますが、その後は手掘り、手籠で何百回も土を運び出し、丁寧にふるいにかけてご遺骨を探します。


令和元年度に収容できたご遺骨は今のところ6柱という、厳しく難しい作業なのです。

作業現場には、厚生労働省、JYMA日本青年遺骨収集団、旧硫黄島島民、小笠原村民、重機を操作する方たち、自衛隊員など、たくさんの皆さんが頑張ってくれています。その中には、私が硫黄島を訪れるようになった20数年の間にご縁をいただいた懐かしい人々がおり、久しぶりの再会を喜び合いました。

また、今回はこれまで訪れたことのない摺鉢山のふもとにある通称「松下壕」と呼ばれる崖沿いの壕をお詣りさせていただきました。
島周遊道路からも遠く、マイクロバスから四輪駆動車に乗り換えて斜面を降り、そこからは徒歩で草をかき分け、最後は崖をよじ登ってようやく辿り着く難所です。

硫黄島の戦闘開始時に日米が激烈に衝突した硫黄島のシンボル、摺鉢山の海に向かった正面に配置された最重要拠点の壕口は狭く腹這いにならないと奥に進めない状態が10メートルも続き、そこから下ったり曲がったりの長い周回路になっているということでした。


現場まで遠く危険という理由で厚労省の事務方よりは無理といわれておりましたが、何としてもお詣りしたいと強く要望し、ようやく実現できました。
折りからの強風で土が巻き上がり、目を開けることもままならない中でしたが、心を込め拝礼させていただきました。

終戦から74年間、時間の止まった南の島では、硫黄島守備隊2万2千人のうち生還出来た方は約1,000人、未だに11,450余柱のご遺体が灼熱の島の地下に眠り、まさに島全土が霊地です。
島で戦った方々が一人残らず故郷にお還りいただくまで、硫黄島の戦いは終わっていないのです。


私たち超党派国会議員で作る「硫黄島問題懇話会」は逢沢一郎会長を中心に、有志議員により硫黄島協会が行う戦没者慰霊追悼顕彰事業を支援し、長年の悲願である飛行場滑走路下のご遺骨探索など戦没者遺骨収集帰還事業を応援し、これからも全力で取り組んでまいります。


また、今回の参加者の最年長者は91歳の女性でしたが、入間基地に帰り解団式で声をかけた際には「兄の顔を覚えているのは私だけだから」と元気な笑顔を見せてくれたことが心に残りました。


全国に散らばる硫黄島の戦いの戦友・遺族関係者でつくる硫黄島協会に対しても、引き続きお手伝いをさせていただきます。
時間が経ち世代が変わっても、私たちは現在の平和が英霊の皆様の尊い犠牲の上に成り立っていることを心に刻み、決して風化させることなく次の世代に伝えていかなければなりません。


そして、二度と悲しい戦争が起きないよう、平和の誓いを持ち続けることが英霊の皆さまに報いることだと考えています。
英霊の魂が安らかならんことと共に、私たち遺族にご加護を賜るように願いを込め、愛しい島をあとにしました。