米国硫黄島協会 第一回「平和と和解賞」を受賞しました。
故・スノーデン将軍、硫黄島の勇者たちを偲んで
2月17日、ワシントンD.C. に出張しました。この日は第73回米国・硫黄島協会の総会が開かれ、夕刻からのセレモニーでこの度創設された「平和と和解賞」の授与式が行われました。
この賞は、昨年亡くなられたローレンス・スノーデン海兵隊退役中将(米国硫黄島協会・名誉会長)を顕彰し創設されたものです。この度、日米を通じて一人に贈られる記念すべき第一号受賞者として光栄にも私が指名され、全米から集まった関係者を前に記念のスピーチを行いました。
スノーデン将軍は長年にわたり米国硫黄島協会の会長として、硫黄島における日・米合同慰霊祭の開催に多大な貢献をされてきました。
かつての敵同士が集まって互いを称え、亡くなった仲間を追悼・顕彰する合同慰霊祭を続けているのは、世界でただ一箇所、硫黄島のみです。
▶米国議会、安倍総理の演説で紹介◀
この合同慰霊祭については、2015年4月29日、戦後70年の節目として米国連邦議会・上下両院合同会議にて日本の総理大臣が初めて行った演説の中で、「日・米硫黄島関係者の和解と友情への努力が、戦後の日・米両国の信頼と友情に結びつき、今日の強固な同盟関係の礎になった。」と、安倍総理より触れていただきました。
そして安倍総理は、傍聴席にいたスノーデン将軍と日本側遺族代表として硫黄島守備隊司令官・栗林忠道陸軍大将の孫である私を紹介し、「熾烈に戦いあった敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。」と紹介してくれたのです。
米国上・下両院議員が総立ちの拍手の中、傍聴席にいたスノーデンさんと私が交わした固い握手の感触を忘れることはありません。
この度の「平和と和解賞」は、戦後の日・米和解の努力と平和への願いを次代に伝え引き継ぐ為に創設されました。私は受賞スピーチの中で「もとより受賞の栄に浴するのは私ではなく、かつて戦った日・米の硫黄島の勇者たちであり、その魂はこの会場に来ている。」と心を込めて訴えかけました。
▶米国・硫黄島協会との長年にわたる交流◀
参加者全員は同じ想いを共有し、私はスノーデンさんの遺族や米国硫黄島協会の関係
者たち友人と、握手や抱擁を繰り返し喜び合ったのです。
者たち友人と、握手や抱擁を繰り返し喜び合ったのです。
こうした硫黄島の勇者たちの交流は簡単に始まった訳ではありません。激闘の末に生還した方や直接の遺族たちの感情は日・米双方に複雑なものがあり、相手方に会うことを拒む方の方が多かったと聞いています。
そもそも第一回の硫黄島日・米合同慰霊祭は「名誉の再会」と称され、昭和60年(1985年)に行われましたが、そこまでには戦闘終結から40年の時が必要だったのです。私はその時、母と一緒に初めて硫黄島を訪れましたが、日・米双方とも互いの距離を測り、粛々と式は進みましたが、笑顔はなく、言いようもない複雑な雰囲気があったことを良く覚えています。仲間を失った想い 、大切な愛しい人を奪われた想いは申し上げるまでもありません。
第二回目の日・米合同慰霊祭はそれから10年後、第三回目はその3年後と、開催には時が必要でした。しかし互いの生還者たちの年齢が上がり、3年後ではもう島に行けなくなるかもしれない、ということから現在のように毎年開催が行われるようになったのです。
私がその後に硫黄島に行くようになったのは国会議員となってからです。当時は慰霊祭に参加する政府の要人はおらず、国会議員の参加も私一人という今では考えられない状況でした。
その内に私が外務大臣政務官や経済産業副大臣として参加するようになったことから、外務、防衛、厚労省が私の役職に合わせて参加者を選定するようになり、政務官の時は政務官、副大臣になれば各省も副大臣が参加、当然官僚も局長、審議官とレベルが上がります。そして私が大臣になった時、ついに硫黄島の式典に中谷防衛大臣と塩崎厚労大臣が現職閣僚として初めて参加してくれたのです。本年の慰霊祭も小野寺防衛大臣と加藤厚生労働大臣が参加いただきました。
▶硫黄島で進められてきたこと◀
国会議員となって22年間、私たちの平和と現在の繁栄が、愛しい人・大切なものを護るために自らを捧げた尊い方々の上に成り立っていることを胸に刻み、私は様々な取り組みを行ってまいりました。
森喜朗・元総理に会長になっていただき「国会議員による硫黄島問題懇話会」を立ち上げ、天山慰霊脾を2年間かけて50倍規模に拡充・整備したり、ご遺骨の収容作業をそれまでの点的個別調査から面的調査による集中実施するようにしたり、日米合同慰霊祭にチャーター機を飛ばし高齢者の負担軽減を図ったり、何より大切なご遺骨の収容帰還事業の予算は安倍内閣として従来の25倍に拡充しております。
▶平和を祈る島へ。硫黄島の英霊の皆さまを想う◀
戦後73年経った硫黄島のご遺骨の収容帰還は10,410柱ですが、まだ見つけることが出来ず未収容のご遺骨は11,490柱にのぼります。実に半数以上(52.5%)の方々が未だ島のどこか地中に潜み、眠り続けているのです。国会では議員立法によって遺骨収集事業を国の責任と明確に定めた法律も成立させていただきました。
私たちは英霊の追悼・顕彰を続けていくとともに、英霊の皆様を一人残らず故郷にお還りいただくまで硫黄島の戦いは終わってはいないと考えております。これまで一度も手つかずの懸案だった硫黄島飛行場滑走路下の収集調査もいよいよ本格化いたします。また、硫黄島は未だ真水が取れず自衛隊も雨水を集めて利用しています。基地の島であり民間人は一人も住んでおりません。
私は、今は穏やかな、時が止まったままのこの島を、二度と悲しい戦争を起こさない「平和を祈る島」として残し整備したい、と考えております。
この度の「平和・和解賞」受賞を、果たして73年前の勇者の皆様はどう思われるのか、果たして喜んでくれるのでしょうか。私たちはこれから何を為すべきなのか。
そうしたことを常に心の中に深く留め、自らに与えられる務めを果たしてまいります。
そうしたことを常に心の中に深く留め、自らに与えられる務めを果たしてまいります。