【動画】新藤義孝「軍艦島」視察~長崎県・端島炭鉱~(2015年5月23日)


【動画】「軍艦島の真実」~新藤義孝 長崎・旧端島炭鉱視察報告~


【動画】「カステラアイスの真実」~新藤義孝 長崎・旧端島炭鉱視察報告<番外編>~




5月23日、「軍艦島」と呼ばれる長崎県の端島炭鉱跡を視察しました。
我が国はこれを含む23件の資産を「明治日本の産業革命遺産」として、6月末にドイツで開催されるユネスコの世界遺産委員会での登録を目指しています。私はこの件を閣議決定する際の担当大臣でしたが、残念ながら現地を直接確認する機会を作れませんでした。

今回は、長崎県の濱本副知事(昨年は壱岐島に同行)と田上長崎市長を始め県と市の皆さんに、船を含め案内パネルなど様々な手配をしていただきました。おかげ様で、とても内容の濃い視察となり、御礼申し上げます。
この日は幸運にも海がとても穏やかで、長崎港から船で40分かかる軍艦島は、まさにその名のとおりのシルエットで姿を表してくれました。雑誌の紹介記事で見ておりましたが、行ってみないとわからない想像以上の素晴らしさです。

軍艦島は、長崎港から南西18キロの沖合に位置し、南北に約480メートル、東西に約160メートル、周囲約1200メートル、面積約65,000平方メートルの小さな海底炭鉱の島です。
現在の端島は、岩塊が切り立った小島の周囲を6次にわたる埋め立てにより形成されています。1810年頃に石炭が発見され、1870年(明治3年)に採掘が開始されました。端島の良質な石炭は、主に八幡製鉄所の製鉄用原料炭として供給され、エネルギー政策の転換により1974年(昭和49年)に閉山するまでの約80年間、日本有数の石炭採掘場として稼働していました。

採掘現場は、海面下1000メートルに達し、鉱員及び石炭は、ケージと呼ばれるエレベーター状の箱に乗って昇降しました。ケージは二段式で、鉱員は一度に約30~50名ほどが乗り込み、地下垂直600m以上を分速約480mで下降、約80秒で坑底に到着しました。ちなみに横浜ランドマークタワーのエレベーター は分速750mですが、鉄骨枠組だけのケージに乗って真っ暗な竪坑を降りていくのは、かなり恐怖感のあるものだったと思われます。

1960年(昭和35年)には5千人を超す住民が端島で生活しており、当時の東京都区部の約9倍の人口密度だったそうです。1916年(大正5年)建築の30号棟は、現存する鉄筋コンクリート造集合住宅としては、国内最古のものです。

採掘現場のすぐ近くには、集合住宅、小学校、中学校、病院、神社、酒店、商店街などが混在しており、建物は年月を経て風化しているものの、当時の生活感がひしひしと伝わってきました。

近代炭鉱の島としての栄光を抱いたまま閉山した端島炭鉱。
無人となった廃墟のこの島に、壊れかけの建物だけが残された姿は、まさに宴のあと・・・
この島に住んだ多くの人々が、厳しくも明るく精一杯暮らしていたその光景を想像すると、なんともいえない気持ちになりました。
かつての日本を支えた人々の想いを胸に抱き、夕闇に沈み行く軍艦島をあとにしました。







まさに軍艦のようなシルエット


左が田上長崎市長、右が濱本副知事




竪坑導入建屋のみが残る


明治のレンガ


端島神社は本殿のみが残っている


小学校の校庭と校舎


誰もいない校舎


地獄段と呼ばれる急階段




端島銀座が賑やかだった頃


端島銀座跡


福岡の名酒の看板 酒屋の跡


病院の手術室跡


船を運航してくれた軍艦島コンシェルジュ


夕闇に沈みゆく軍艦島