週刊新藤第205号 竹島特集(1)8/12付の号外【竹島特集】1を205号として再掲載しました。

 竹島は我が国固有の領土でありながら韓国による不法占拠が続いており、特に昨年 9 月の民主党政権誕生後、韓国は竹島の不法占拠を正当化するような問題行動を頻繁に行っています。竹島ヘリポートの改修工事や竹島北西 1 キロ地点における海洋科学基地の建設計画がその代表例です。私はこの問題について衆議院外務委員会安全保障委員会で何度も政府に質問してきたほか、自民党の部会でも党に領土問題を検討する機関を設置するよう求めてきました。

 しかし、政府は未だに竹島を巡る韓国の動きを国民に公表せず、韓国側に対して抗議らしい抗議もしていません。そればかりか日韓併合百年に合わせて新たな総理談話を発表し、韓国側への深い配慮を示しています。私はこのような政府の対応は全くの誤りだと考えています。我が国の領土を守ることは政治の一番の責任であり、これについては、友好関係を深めるべき隣国に対してであっても、毅然とした対応をとるべきなのです。
 このような思いは多くの同士が共有してくれています。その中の一人が、私が日頃より懇意にさせていただいている拓殖大学の下條正男教授です。教授には私が国会で質問をする際に情報提供をいただいたり、大変お世話になっています。教授のお話は大変示唆に富み、皆様にぜひ知っていただきたいので、今号より何回かに分けて教授の竹島に関する論説を「週刊新藤号外【竹島特集】」として、皆様にご紹介いたします。ぜひお読みいただき、日本の主権と国の平和について考えるきっかけとしていただければ幸いです。

衆議院議員 新藤義孝


◆ 虚偽の歴史を捏造し、竹島の不法占拠を正当化する韓国と同調する民主党政権

拓殖大学 下條正男

 今年は、日韓併合100年の節目を迎える。韓国側ではその「韓国併合に関する条約」を強制に基づく不法とし、日本側に謝罪を求める動きがあり、民主党政権にも談話の発表などを通じて、呼応する動きがある。
 だが日韓両国政府は1965年 6 月22日、「日韓基本条約」を締結し、国交を正常化した際に、すでに条約の無効を確認している。この時、日韓は植民統治についても政治的区切りを付けていた。その事実を無視し、民主党政権が韓国側の攻勢に同調して、「日韓基本条約」を否認する理由は、どこにあるのだろうか。
 もし日本政府が談話を発表するのであれば、1965年の日韓国交正常化とともに、終戦後、不法入国した夥しい数の在日に与えた「法的地位」を撤回し、朝鮮半島に残してきた日本人財産の請求権行使に言及すべきである。そして何よりも、密入国者とその子孫に「法的地位」を与え、財産請求権の放棄と深く関わった竹島問題の解決を優先すべきである。
 竹島問題は1952年 1 月18日、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を宣言し、竹島をその中に含めた時に始まる。韓国政府は1953年12月12日、その李ラインを根拠に「漁業資源保護法」を制定して日本漁船の拿捕抑留を強行し、1965年までの間に3000名に近い日本人漁船員が実刑を受けた。1952年から始まった日韓の国交正常化交渉で威力を発揮したのが、抑留された日本人漁船員達の存在である。解放を求める日本政府に、韓国側は密入国した在日に対して「法的地位」の付与を要求し、朝鮮経済の八割から九割とも言われる日本側資産の請求権放棄を求めるなど、人質外交を展開したからだ。
 だが竹島は1905年以来、日本領に編入された日本の固有領土である。従って、1954年の韓国側による竹島の武力占拠は、明らかに侵略行為であった。その韓国側が、日本の植民統治を侵略とし、日本側に謝罪を求め続けるのは、竹島問題の封印が目的だからである。
 日本は、竹島を侵奪した韓国から「侵略国家」と罵倒され、竹島の領有権を主張すると領土的野心と、非難されてきたのである。その中で、歴史事実に立脚しない韓国側の「歴史認識」に追随し、不用意に談話を発表すれば、大東亜戦争の開戦を決断した東條内閣と同様、後世、菅内閣は歴史の審判を受け続けることになる。
 そこで今回、韓国側の竹島問題研究の実態がどのようなものなのか、日本の外務省が2008年 2 月に刊行した『竹島問題を理解するための10のポイント』に対する批判をした『日本外務省竹島問題の概要批判』(2010年 5 月刊)を検証する中で、確認していくことにした。

(注)この文をご覧の方は、外務省のホームページで竹島問題を参照してください。
外務省竹島問題ホームページ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/
[1]日本の竹島認知(『日本外務省竹島問題の概要批判』9 頁?15頁)
  1 .日本の竹島認知 第 1 項

韓国側の批判
(1)韓国は日本よりも235年前に独島(竹島)の存在を認識していた。

下條の反論
 『日本外務省竹島問題の概要批判』では、1667年に松江藩士の齋藤豊仙が編述した『隠州視聴合記』より235年も前に、朝鮮では独島(竹島)を認知していたという。その根拠は、1432年に編纂された『新撰八道地理志』に置かれている。しかし同書は1454年に編纂された『世宗実録』所収の「地理志」の底本となったが、未伝である。従って原本も確認せずに235年も前から認識していたとするのは、憶測に過ぎない。
 それに韓国側は、『世宗実録』所収の「地理志」に記された于山島を今日の竹島と曲解しているが、于山島と竹島は全く無関係である。(于山島については別に述べる)
 その『世宗実録』所収の「地理志」には、次のように記されている。
 于山・武陵二島、縣の正東の海中にあり。[分註]二島相去ること遠からず。風日清明なれば、則ち望み見るべし。(二島は互いに遠く離れていない。よく晴れた日であれば、望み見ることができる。)
 ここで問題となるのは、風が穏やかでよく晴れた日、「望み見える」島はどこなのか、ということである。そこで韓国側では、風が穏やかでよく晴れた日、欝陵島から独島が見えるので、于山島は独島(竹島)に違いない、というのである。
 しかしこの文章を踏襲した『東国輿地勝覧』では、「見える」先には「峯頭の樹木及び山根の沙渚」が「歴々」見える、としている。周知のように、竹島は東島と西島からなる岩島で、樹木や沙渚は存在しない。この「峯頭の樹木及び山根の沙渚」の記述は欝陵島のことである。韓国側では「見える」ということを根拠に、文献を恣意的に解釈し、于山島は独島(竹島)に違いないと強弁していたのである。それを強弁と断定する根拠は、朝鮮時代前期の地誌編纂の常識である。地誌編纂には「規式」と言って、管轄する地方官庁からの方向と距離を明記する編纂方針があったからだ。そのため『東国輿地勝覧』では、欝陵島を管轄する蔚珍県の正東、「歴々見える」距離に、欝陵島が存在するとしたのである。
 つまりこの「見える」は、朝鮮半島の蔚珍から見た欝陵島の説明と解釈しなければならないのである。事実、1757年、洪良漢の発意で編纂された『輿地図書』や金正浩の『大東地志』では、『世宗実録』(地理志)や『東国輿地勝覧』にあった于山島が消滅して欝陵島単独の表記となり、「見える」は朝鮮半島の蔚珍から見た、欝陵島のこととされている。
 韓国側では自国の文献も読まず、独島(竹島)は韓国領とする固定観念で、文献を読んでいるのである。従って、「韓国は日本よりも235年前に独島(竹島)の存在を認識していた」、という批判そのものが虚偽の歴史の捏造なのである。
 なお、余談だが、韓国の国会図書館は昨年11月、私個人を批判する英語版の『The Dokdo/Takeshima Controversy』(竹島=独島論争)を刊行し、世界各国の国会図書館等に配布した。韓国政府が個人の見解を批判し、それを国際社会に対する宣伝に使った事実は、常軌を逸した所作である。それも「歴史資料から考える」としながら、文献を恣意的に解釈し、歴史論争と称している。韓国政府は虚偽の歴史を捏造し、あらゆる手段を講じて国際社会を欺瞞し続けているのである。



 新 藤 義 孝