第164号 世界との絆 ~国際平和構築編~


コソボ紛争の当時、国連高等難民弁務官の緒方貞子さんと知り合いました。
尊敬する緒方さんから「あなたは、世界中の政治家の中でもっとも敏速に働き、
かつ国際貢献をもっとも理解している日本の新しい政治家」という言葉を
いただきました。私にとって忘れられないうれしい思い出です。


 この世の中のどんな人でも平和を願い、豊かなくらしを望まない方はおられません。その実現は一地域では出来ず、一国家でも成し得ません。広く世界全体が平和になるように、日本に住む私たちは世界の平和構築に向けた活動を積極的に取り組む必要があります。
 私の祖父・栗林忠道は、硫黄島最高司令官として戦争の終結を願いながら散っていきました。そんな祖父の志を受け継ぐ者として、国際平和は自分の心に刻まれた誓いです。
 私は、過去の戦争を反省し二度と国民を不幸にしないためには、国際社会の中で、日本が正しく活動し評価される国であらねばならない、という強い気持ちを抱いております。


◆ 湾岸戦争の二の舞としない

 1999年、コソボ紛争が勃発。日本は国際社会に向けて240億円もの経済支援策を打ち出しました。しかし、湾岸戦争では 1 兆 8
千億円も出しながら、「日本は金だけ出して何もしない」と批判された苦い経験があります。あの湾岸戦争の二の舞としてはならない、この目で現地を見て確認
をしたい。そんな想いから 5
月のゴールデンウィークを使って、自費でコソボを視察しました。現地に行ってみると、難民キャンプで働くのは欧米のボランティアばかり。日本人ボランティ
アはキャンプにすら入れません。日本から届く物資も無印の梱包で、それを国連の欧米のスタッフが配っています。お金は出しても、日本人の心はまったく届い
ていない。それが現実でした。

コソボ難民キャンプにて子供たちと。
世界の人たちと助け合って生きる(99年8月)


◆ 「顔の見える国際貢献」という言葉

 帰りの飛行機の中で、当時の小渕総理への提案書を作成していた時にタイトルに浮かんだ言葉が「顔の見える国際貢献」です。今ではよく使われるこのフレー
ズは、この時、私が使った言葉が始まりといわれています。総理に国際貢献の不備を訴え、国の姿勢を変え、合計 3
回コソボに飛んで、日本の国際貢献の在り方やNGO支援を、直接的で具体的なものに変えていきました。日本の支援物資には、私の提案により「From 
the People of Japan」と記された日の丸ステッカーが貼られるようになりました。これが私の国際平和構築活動の第一歩でした。



◆ アフガニスタンの復興に駆け回る

 2002年のクリスマス、外務大臣政務官だった私は、アフガン戦争後の復興のため、首都カブールへ。会議場から爆弾が発見されるなど、厳しい治安状況の
中で「善隣友好支援国会議」が開かれ、私は日本の復興援助策を取りまとめました。翌年 2
月には、東京で「平和の定着・国際会議」を開催。カルザイ大統領とはカブール、東京と二度に亘り会談し、アフガンが望み、日本の出来る最善とは何かを話し
合いました。
 『お金だけではない。物だけでもない。人が動き、心が通うこと』が私のスローガン。鮮明で具体的な日本の援助のために奔走しました。

2003年2月 来日したカルザイ大統領を出迎える


◆ イラク戦争復興支援調査に飛ぶ

 2003年 6
月、戦闘が終了した直後のイラクへ政府・自民党は調査団を立ち上げ、私はその一員として現地入り。ヨルダンのアンマンから爆撃のあとも生々しい高速道路を
使い、バグダットを経て南部のバスラまで、約 2
千kmを車で走破しました。ホテルの玄関前ですら銃声が時折聞こえるような極めて治安の不安定な状況で、日本がイラクの人々にどのような援助活動を行える
のか、国際社会の一員として、日本の新しい国際貢献を決定付ける視察調査でした。この時、視察後のクウェートのホテルでまとめたのが、自衛隊による水の浄
化・補給・配給・物資の輸送など、日本の支援計画です。
 『金しか出さない』と国際社会に見られていた日本。国際社会からの信頼を取り戻し、世界との絆を創りあげるために、現地で汗をかき共に働く―。思えばコ
ソボからは 4
年しか経っておりません。私は日本国という大きな歯車の一員でしかありませんが、わが国の国際貢献活動が極めて短期間に進化したことは、私の内なる喜びで
あります。



◆ 「希望の星」プロジェクトで日本海の放射能の汚染を排除

 冷戦終了後、日本海につながる極東ロシア沿岸には、財政上の理由等により41隻もの退役原潜が未処理のまま放置され、放射能漏れ事故を起こすなど危険な
状態にありました。それまで日露間の交渉は東京・モスクワ間で行われており、10年間進展がありませんでした。2002年11月外務大臣政務官の私は、関
係者と直接交渉を行うべく極東のウラジオストクに出張しました。ロシア側にやる気が無いなら日本が拠出した資金は引き上げる、そんな気持ちで交渉に臨みま
したが、現地のロシア人たちと何度も腹を割って話し合った結果、共に放射能の脅威から人々を守ろうという合意を得ることが出来ました。
それが2003年 1
月、小泉総理とプーチン大統領により決定された日露両政府による「希望の星プロジェクト」(ロシア退役原子力潜水艦の非核化事業)です。以来、原潜解体は
順調に進み、あと何年かで全てが完了する予定となっています。



◆ さらなる国際貢献活動にむけて

 外交や国際交渉は精緻な条件闘争であり、国益がぶつかり合う場です。しかし、最後は人と人との信頼や友情がものをいい、互いの情熱や使命感が解決策を生み出す、ということを私は経験から学びました。
 国際社会からの日本への期待はますます大きくなるばかりです。私はわが国の国際平和構築活動を、自らのライフワークとしてこれからも取り組んで参ります。


新 藤 義 孝