第22号 わが街のDNA5 わが街・歴史探訪 ~ 鳩ヶ谷編


13号より始まった「わが街のDNA」シリーズ。今号では鳩ヶ谷市の成り立ちや歩みについてお話しさせていただきます。判っているようで意外に知らないの
が、地元のことではないでしょうか? 今回改めて、鳩ヶ谷市本町にある鳩ヶ谷市立郷土資料館にお伺いし勉強させていただくと、たくさんの興味深い史実を知
ることができました。特に合併問題で揺れた川口と鳩ヶ谷の関係は、まさに ?歴史は繰り返す? そのものでした。
「温故知新」皆様と共に鳩ヶ谷の歴史を探訪してみましょう。

鳩ヶ
谷という名が最初に確認できるのは、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』に、鳩谷兵衛尉重元(はとがやひょうえのじょうしげもと)が鳩谷郷地頭として登
場します。地名の由来については、「谷」は大宮台地に荒川低地の谷地が食い込むという、谷の多い地形に由来すると考えられます。しかし、「鳩」については
諸説ありますが、平安時代の『和名抄』という資料に、「武蔵国足立郡発度郷」という地名が記されており、これを「ハトゴウ」と読んだことから、後に「鳩」
という漢字をあてたという説が有力です。

やがて、鎌倉、室町の両時代は鎌倉と奥州(東北地方)を結ぶ鎌倉街道中道(なかつみち)が鳩ヶ谷を通り、交通の要衝として栄えました。江戸時代に入ると徳川将軍が日光東照宮に参拝するための街道である日光御成道の宿駅としてますます発展します。

明治に入ってからも鳩ヶ谷は、三・八市が開催されるなど埼玉県内屈指の賑わいをみせていました。『埼玉県営業便覧』によると、1902年(明治35年)頃
の街並みとして織物買継商や米穀問屋が軒を連ね、また浦和裁判所の出張所、鳩ヶ谷警察分署、そして登記所などの主要な公共施設が鳩ヶ谷に設置され、まさに
埼玉県南部の中心地だったのです。

このように、鳩ヶ谷は歴史的に交通の要所として発展してきましたが、鉄道駅の誘致、通過案を鳩ヶ谷町が拒否したことで、その後の発展に大きな影響を及ぼし
ます。1910年(明治43年)、川口に日本鉄道の「川口町駅」が誕生したことによって、その二十年後の1935年(昭和10年)には流通経済の拠点であ
る問屋街は廃れ、ただ一軒を残すのみとなってしまったのです。

1933年(昭和8年)、川口町と横曽根・青木・南平柳の3村が合併し川口市が誕生しました。当時の鳩ヶ谷町では、「川口と一緒になることが発展の道だ」
という声が高まり、芝村などと共に、1940年(昭和15年)4月1日に川口市と合併します。(この時、川口市は蕨町にも合併を申し入れていますが、拒否
されています!)しかし、戦後すぐに鳩ヶ谷町から合併時の条件不履行をタテに分離独立の声が上がり、全町民を巻き込んで分離賛成派と分離反対派の激しい住
民運動が繰り広げられてしまうのです。そして、1950年(昭和25年)6月4日には、「分離の賛否」を決める住民投票が行われました。


投票日前夜の模様を伝える埼玉新聞には、「分離騒ぎが頂点に達し、狂気の沙汰と思われた」と報道されています。住民投票は分離賛成派が勝ち、1950年
(昭和25年)11月1日に鳩ヶ谷町は川口市より分離します。しかし、その後も分離賛成派と分離反対派の確執は続き、1954年(昭和29年)の埼玉新聞
の記事には「西の飯能、東の鳩ヶ谷、ゴタゴタの歴史果てるなし。そろそろお静かになりませんか」と書かれてしまうほどでした。

1957年(昭和32年)には栗原埼玉県知事(当時)から、川口市と鳩ヶ谷町は合併するよう勧告がなされます。翌年3月、鳩ヶ谷町議会は川口市への合併を
議決しますが、11月の選挙による町会議員の改選によって反対派の議員候補が多数当選。12月の定例議会では「川口との合併取消決議」が採決されてしま
い、合併は水の泡と消えてしまいました。その後、鳩ヶ谷町は単独で1967年(昭和42年)3月1日に市制を施行、今日に至っています。

私は現在に至るこの鳩ヶ谷の歴史を学んだとき、鳩ヶ谷に住み、発展のために尽力された先人たちの地元に対する「誇り」と「愛郷心」を強く感じました。一方
で、交通の要路として発展した町が、鉄道拒否や分離独立という政治決断により変革していく歴史の重みを痛感いたしました。

鳩ヶ
谷町が川口市より分離した昭和25年当時、安行村も美園村(現在の戸塚地区の前身)も川口市では無く、鳩ヶ谷の分離で、新郷は川口市の飛び地となっていた
のです。歴史に「If(もし)」は禁句ですが、もし、鳩ヶ谷町が川口市からの離脱と同時に、安行村や美園村、新郷、そして草加村までも含めた合併を実現し
ていたなら、現在とはまったく様相を異にした街づくりができていたかもしれません。(史実では、安行村・美園村は川口市との合併を選択しています。”政争
の町”として有名であった鳩ヶ谷町に対する不安が原因のひとつと伝えられております)

2001年(平成13年)、多くの関係者の永年に亘る活動が実り「埼玉高速鉄道線(地下鉄7号線)」が開通し、鳩ヶ谷再発展のチャンスが生まれています。

川口、鳩ヶ谷、蕨の3市による合併は消えてしまいましたが、地域同士の争いは、そこに住む人たちの利益に決して結びつかないことを私たちは歴史に学ぶべき
です。そして地方分権の流れの中で、県南地域は広域行政を確立しなければ、新しい時代に取り残されることを皆様に訴えたいと思います。そのための方策を探
り、機会を創り出すことが、我々の子孫に対する歴史的責任ではないでしょうか。また、政治家として活動する私に与えられた任務と考えております。これから
の鳩ヶ谷の発展に向けて、私も皆様と心を一つにして、全力で努力して参ります。

新 藤 義 孝